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ローマ共和国
Romae reipublicae
国旗
国の標語:Senatus Populusque Romanus
ローマの元老院と市民
国歌:Omnes viae Romam ducunt
全ての道はローマに通ず

国の所在地
公用語イタリア語(事実上)
首都ローマ
最大都市アリオン
政府
政治形態共和政
執政官セルギオ・テュレス・パウロ
元老院議長ポンペオ・ドリス
庶民院議長ユリウス・カエサル
概要
面積31万260㎢
水面積率2.38%
最高標高4810.9m、モンブラン山頂
人口6998万人(本土)
人口密度225.55
GDP2.77兆リラ(本土)
一人当たりGDP39582.7リラ
通貨リラ
時間帯UTC+1(本土)
ドメインコード.ro
国際電話番号+39
歴史
王政開始B.C.477
ポエニ戦争終結B.C.147
帝政開始B.C.63
共和政開始1554年
ローマ憲法成立1799年7月19日


概要

 イタリア半島と周辺の島々、およびアフリカ北岸のチュニスを領土とする共和制国家。7000万人近い人口とそれを背景とする経済力は西ヨーロッパ有数のものとなっている。長い歴史を持つ国でもあり、紀元前1世紀から5世紀頃までローマ帝国として地中海世界に版図を広げた。その後政治体制を変化させながらも半島と飛び地としての植民都市チュニスを維持し、現在に至っている。歴史を通じてローマ帝国をほぼ継承する国として認知されているが、現代ではラテン語はほとんど普及しておらず、また国民もギリシア系ではなくイタリア人やフランス系、ドイツ系の住民が大半を占めている。また20世紀以降は経済も停滞し国際関係のなかで相対的に国力を落とすなど、必ずしも「ローマの栄光」は残されてはいないが、それでもなお国民は自分たちをローマ市民であるとして誇りに思っているようである。
 文化的には美食の国として知られ、ピザやリゾット、パスタ、また様々なチーズやワインが特徴であるローマ料理は世界的に有名。このことから国民の食事への関心は高く、それに伴って肥満率も上昇している。料理のレベルは実際非常に高く、街中を歩く男子高校生でも冷蔵庫の中の余り物を使ってアラビアータやカルボナーラを作れるといった具合である。そのため特段高級店でなくとも飲食店のレベルが高い。
 酒と料理と美人、これがローマ人の最高の娯楽である。
 

国名

 公式な公用語ではないものの、政治の場ではラテン語が使用されており、国名も通常ラテン語で表記される。ローマの長い歴史の中で現代のローマを「共和政ローマ」と指すこともあるがこれは必ずしも適切とは言い難い。帝政に入る前のローマや、中世にたびたび空位時代が起きた際にローマは共和制を採択してきたので、「共和制の」ローマの時代は複数回存在しているからだ。
 現在の正式名称はローマ共和国。単にローマと呼ばれることも多い。以下に各国語表記を記す。
 英語:Republic Rome
 現代イタリア語:Repubblica Roma
 ギリシャ語:Δημοκρατία της Ρώμης
 フランス語:République Rome
 ドイツ語:Republik Rom

 なお、ラテン語について捕捉すると今なお政治の場(法律の正文や公文書、議事録など)ではラテン語が使用されている。また国旗にも入っているSPQR(Senatus Populusque Romanus)は敬意を持って扱われるべき言葉であり、日常的にみだりに使用してはならないとされている。このため民間で使用されているローマ国旗は単に赤地に冠だけとなっている場合も多い。
 

地理

地形と気候

 南北に細長い地形を持ち、気候も変化に富む。北部は山岳地帯であり大陸性気候の様相を呈するが、3000〜4000m級のアルプス山脈が自然の防壁となり、冬場はそれほど寒冷ではない。国境に近い山地では標高に伴い降雪も激しくなり、冬場は200cm以上の豪雪が観測されることもある。また、ローマ領内のアルプスでは何箇所か氷河も観測されており、こういった自然はウィンタースポーツの名所や観光資源になっている。しかしながら冬場のアルプスは非常に厳しい場所であり、20世紀以降も死者が出るような険しい山であることには変わらない。一般の観光客が登山するにはかなりハードルの高い山脈であるとも言えよう。南下するにつれ地中海性気候の様相となり、南部は冬場でも温暖である。このため小麦などの二期作が行われるほか、オリーブやブドウ、また少量ながらキャッサバなど温暖また乾燥した地域で耕作される作物も生産されている。ローマでは農業が非常に盛んであり、米や小麦、イモ類にはじまり種々の野菜(ローマのアスパラガスは特に有名)やブドウ、オレンジと言った果物類、さらにはオリーブまで多種多様な作物が育てられている。このため食料自給率も118%とヨーロッパ諸国の中でも高い水準にある。北部がウィンタースポーツや登山を楽しめるのに対し、温暖な南部ではマリンスポーツやビーチを楽しむこともできる。本土最南部に位置するシチリア島では特にモンデッロ・ビーチやチェファルーが人気であり、こう言った南の海岸では早ければ3月頃から11月の初めくらいまでスイムスーツなしで泳ぐことができる、さながら常夏の楽園である。さらに南下したチュニスはアフリカ北岸のため、冬場のごくわずかな時期を除いて年間を通じて乾燥しているが温暖である。もう一つローマの、特に半島南部の気候の特徴として日差しの強さを挙げることができる。現地の人は日常的にサングラスを使用しているので、慣れていない外国からの観光客は特にサングラスや日焼け止めクリームなどで日差し対策を怠らないこと。

自然災害大国ローマ

 ローマには活火山があり、それがナポリにあるヴェスヴィオス火山である。この山は日常的に噴煙を上げており、過去2000年以上に渡って活発的に活動してきた。たびたび大規模な噴火を起こしてはローマ全土に被害を出している。
 また、ローマ本土の地下にはユーラシアプレートと北アフリカプレートの境目があり、このために地震頻発スポットともなっている。実際ローマは地震が多く、20世紀になってからだけでも大規模なものでは1922年、1937年、1965年、1972年、1998年の5回発生しており、これらはいずれもM6以上の大地震である。
 このようにローマは自然災害大国であり、度重なる災害は国家財政を圧迫している。このため災害に強いインフラと国土開発が国家的な課題となっている。

資源

 ローマは資源産出国ではないが、ごく少量のスズや鉛、原油、天然ガスが産出される。いずれも国内需要の1割を満たす量にもならず、ローマは資源輸入大国である。特にローマの産業に必要不可欠な原油と鉄鉱石は、その多くを北アイルランド連邦とオクター連邦に依存している。

海外領土

 海外領土としてアフリカ西岸のオクタ・アフレイオスとチュニジアがある。なお、チュニスはローマ本国領土である。
 

歴史

 ローマの歴史について説明する。歴史的に見ると、現代のローマは1554年から続く第二共和制。

ローマ帝国成立まで

 古来イタリア半島には民族系統不明のエトルリア人が先住していた。彼らは主にイタリア半年中部に都市国家を築き、緩やかな連合体として存在していた。紀元前8世紀頃までには王を頂点としたエトルリア人の王国が誕生していたが、次第に北部から南下してきたラテン系の住民と融合し、紀元前477年にははっきりと「ローマ王国」が存在していたことが記されている。ローマという地名、および民族・国家名が明確に文書や史跡に出てくるのもこの年代以降であり、歴史学上この年を王政ローマ成立としている。実際には古来から続く先住エトルリア王国がローマと融合し、ある時点で住民の人口比が逆転し、ローマ人の国となっていったのだろうと推測される。彼らは高い建築技術を持ち、紀元前2世紀頃の都市には水洗トイレや3階建て住宅、独立型キッチンなどが発見されている。
 初期の王政ローマは好戦的ではなく、植民によって国を広げていたようである。それでもローマ人の生活範囲が南欧だけでなく海を渡った北アフリカにまで拡大していくにつれ、当時地中海の覇権を握っていたカルタゴと衝突することになる。カルタゴとローマは激しく対立し、紀元前203年にはアフリカ北岸、現在のチュニジア近郊で戦争に発生した。ローマはこれに勝利し、この時に獲得した地域はチュニスとして現代にまで至っている。しかしながらカルタゴは強国であり、紀元前189年、ついで180年にはアルプス山脈を越えてローマ本土内に侵入し、特に2回目の攻勢では首都目前まで侵攻されている。ローマはこれにより一時勢力を落とし、半島南部の狭い地域にとどまることとなったが、度重なる遠征はカルタゴ側の国家財政も逼迫することとなり、ローマは次第に国力と領土を回復していった。ポエニ戦争と呼ばれるローマとカルタゴの戦争は複数回あるものの、紀元前147年に第4回ポエニ戦争によりローマはカルタゴを占領し、こうして戦争は終わった。ローマの長い歴史の中で初めての対外戦争であったが、これに勝利したことで地中海のパワーバランスはローマに傾くこととなる。ポエニ戦争を前後してローマは共和制に移行している。興味深いのは都市ごとに直接民主制を取り入れた共和制であり、初期のローマでは公民権や奴隷保護に関する法律が制定されるなど、かなり民主的な政治が行われていようである。この共和制時代のローマを第一共和制ローマと呼ぶが、1回目の黄金期とも呼ばれている。ポエニ戦争後一気にそれまでカルタゴの影響下にあった広大な土地を手に入れることとなり国が大きく拡大した反面、戦争は終わり、安定した生活が戻ったからである。新しい文化も花開いた。従来多神教を信仰するローマであったが、一神教のユダヤ人などの影響により宗教面や思想面で大きな変化が見られた。この時代の建築物などは未だに現代のローマ市内にも残されており、一部の歩行者用の橋や水道施設などは今なお現役で使用されている。このことからも、古代ローマの高い建築技術がわかるだろう。共和制下で政治の実権を握ったのが10人ほどの貴族からなる元老院である。末期には貴族たちによる腐敗した政治が広まり、また激しい権力闘争が起きるなどしていたようである。元老院出身の有力貴族が各地で半ば独立国の元首のように振る舞ったりすることもしばしばで、その中の一人、ユリウス=カエサルが紀元前63年に皇帝に即位し、こうして帝政ローマが成立する。なお、2020年現在の庶民院議長もユリウス・カエサル(Iulius Caesar)であり、つづりまで含めて同姓同名である。

繁栄と衰退

 そもそも王(King)と皇帝(Emperor)の違いは、被支配民族の数にある。1つの国民・民族を支配しているのが王であり、複数民族を支配しているのが皇帝である。一般的に「王国」より「帝国」の方が大きなことはこの理由による。1世紀のローマはすでに北はアルプス山脈、東はバルカン半島の中部まで、それから小アジアや地中海東岸を通って北アフリカ一帯までを治める立派な帝国であった。民族も様々であり、ギリシャ人やアラブ人、ユダヤ人、ペルシア人、ゲルマン人、ケルト人と多様であった。ローマはこのような帝国をどのように維持していたのだろうか。
 帝政ローマでは各民族は一定の自治権を有していた。例えばエルサレム周辺ではユダ州が置かれ、その総督は通常ユダヤ人から選出された。同じようにゲルマン人の地域のガリア州ではゲルマン人の総督がいた。こういった具合で被支配民族の自尊心に配慮を払いつつ、中央から知事を派遣するのではなく地域の長をその地域から選出するやりかたで納めていたのである。しかしながらこれにはいくつかの問題があった。まず第一に各州に自治権を与えていたため、ローマで発行されている貨幣と、各州で発行される貨幣が並立することになった。州発行の貨幣はローマ本国でも使用できたが、州によって硬貨の鋳造レベルもまちまちであり、粗悪なものも混じっていた。また、各州には本国から派遣されている駐屯ローマ兵団があったが、州ごとに徴兵され組織された州軍も存在した。初期のローマ軍が圧倒的な優位を保てていた頃はよかったが、ローマ式の訓練や戦術を取り入れるなどして次第に州軍も力をつけていき、駐屯兵団を脅かすようになった。そしてこういった要因から、各州の被支配民族はまとまりがなく、「ローマ帝国」という一つの国の国民であるという意識はほとんどなかった。これは外敵との戦争時にローマにとって極めて深刻な弱点となった。時代の変化に対応できなかったこともあり、ローマ帝国はその時代ごとに少しずつ領土を縮小していく。6世紀頃、西洋にてフランク王国が、またスペインではイスラム国家であるウマイヤ朝、そして後ウマイヤ朝が誕生した。9世紀には中欧で神聖ゲルマン帝国が誕生、さらにロシアやポーランド、そして東のセルジューク朝といった有力国家の誕生にローマはなすすべもなく、13〜15世紀にかけてチュニスを含む、ほぼ現在のローマ領土に落ち着いた。16世紀頃になるとローマは単にイタリア半島を収める一王国に過ぎず、地中海世界の中ですっかり地位を低下させていた。厳密な男系王朝ではなかったローマではたびたび空位時代が起きることもあり、その度に国に混乱をもたらした。第129代皇帝バルパンティノスを最後に帝政は廃止される。皇帝自ら退位を宣言し、最も輝かしい時代であった共和制ローマの復活を目指してのことだった。革命や流血を伴わずに王政が終わるのは珍しいことである。1554年にバルパンティノスは執政官に就任、こうして第二共和制ローマが成立した。

共和制と近代化

 ローマ人たちの黄金期であった第一共和制を目指して政治システムは共和制時代の古代ローマ式に戻された。時代によって多少異なるものの、執政官と元老院、そして庶民院が置かれたこの仕組みは現代まで継承されている。政治だけでなく、芸術面でも回帰姿勢が見られた。従来のキリスト教的な姿勢に縛られない古典的なスタイルが再び取り入れられ、神々が肉体的に愛し合う様を描いた長編小説『真夏の夜の淫夢』や絵画『屋上の間』などが生まれた。16世紀のローマはイタリア半島の一部分とチュニスを維持するのみとなっていたが、南部にはローマ人商人たちが活発に活動しており、大航海時代の波に飲まれながらスペイン、オランダ、オスマン帝国、英国などの商人たちと交流していた。ローマが国家として大規模航行探検に乗り出すのは17世紀半ばになってからのことである。地中海の物流拠点としてイタリア半島が再び盛り返してくると、商人たちの情報によりローマでも外洋航海ができるような大型船が建造されるようになる。この頃のローマでは南米からやってきたカカオが貴族たちの間で流行していたが、複数の国を経由していたため非常に高額であった。このため庶民院から安定した供給のためにローマの国営農園保有の声が高まり、17世紀後半以降ローマも南米やアフリカ諸国に進出していくこととなる。当時のアフリカと新大陸はすでに英仏の植民地競争の表舞台であり、ローマは海外へ進出する過程でいきなり苦境に立たされることとなる。国力で大きく劣るローマはまだ手付かずのアフリカ西岸に目をつけ、探検隊を派遣するなどして機会を窺った。1723年に探検隊保護の名目で軍隊を派遣したが、非ヨーロッパ文明圏国家相手にも苦戦した。当時のローマは1000年間近く戦争が起きておらず、近代戦の経験がほとんどなかったこと、またアフリカ諸部族はアメリカやイギリス相手に奴隷貿易を行い、その利益で新型の銃を購入していた背景があり、特に1744年のイバダンの戦いでは、4万人ほどのロメ・イバダン連合軍相手に18万人のローマ軍で臨み、壊滅的な被害を受けて撤退するなどしている。探検隊はギニア湾周辺の気候や地理的要因からローマ料理に欠かせないカカオやコーヒー、ブドウなどの栽培に最適と元老院に報告していたが、最終的にローマがこの地域の支配を確立するのには1世紀もたった1816年のことである。
 なお、1832年にはプロイセンや英国からチュニスを防衛するという名目でチュニジアに侵攻しているが、9万5000人程度の現地軍相手に艦砲射撃や気球を使用し、30万の兵力を動員してやっと制圧したというなんとも言い難い記録が残っている。現在のローマはチュニスを除くチュニジアと、ギニア湾周辺のアフリカ西岸地域を植民地として保有しているがこれ以外にローマが侵略を試みた地域は特にない。その後現地のプランテーション経営が軌道に乗ると、19世紀後半になってやっと労働者層も安価な甘いチョコレートを手にできるようになった。チョコレート産業は今でもローマを代表する産業の一つである。

20世紀以降

 19世紀後半から徐々に産業革命が起こっていたが、20世紀に入ると重工業の工場や輸送交通網など国内のインフラ投資が加速し、1900年から1910年までの10年間で750万人以上人口が増える初のベビーブームを経験している。
 第一次世界大戦では連合国側として参戦し、戦後オーストリア領のシチリア島を獲得した。ここに主張されていた主要領土の大半は回収され、現在ローマの認識では諸外国との間に領土問題はないというのが公式の立場である。戦後戦勝国となったローマは国際連盟の常任理事国入りすることでついにヨーロッパの列強の一員に加えられたが、ローマの繁栄は長くは続かなかった。1922年にナポリ近郊でマグニチュード7.1の大地震が発生、7万人近い死者を出す最悪の自然災害となった。ローマ経済の中でも重要なナポリの復興に向き合う中で追い討ちをかけるように世界恐慌が起き、不安定な国内でファシズム運動が見られるようになる。1930年11月の庶民院選挙では総票数の79.9%をファッショ党(ファッショ派)が獲得すると党首のムッソリーニは武装した党員を率いて元老院を訪問し、これに圧力を掛けた。当時ファッショ党が国民からの支持を受けていたこと、また内戦状態への発展を懸念したこともあり、執政官府は政権を委譲した。ムッソリーニは自身をローマ皇帝と名乗り、庶民院を解散させ帝政を行った。第二共和制でも何度かこういったことは見られたが、これが最後の共和制中断である。ムッソリーニは同じくファシスト政権であったドイツに接近し、1936年には日本を加え、日独羅三国同盟を締結した。1939年、軍備が整わないままドイツに呼応する形でフランスに宣戦布告し、連合国と戦争になる。ローマにとって最初の戦いは、ドイツ軍によって猛攻されて崩壊しつつあるフランス野戦軍を側面から攻撃することであったが、補給もままならないフランス軍8万に対し22万の陸空軍で攻撃し、フランス側に講和することとなっている。年が明けた1940年、ローマはバルカン方面に侵攻するが、多額の犠牲を出しつつ軍の活動範囲を広げて行ってもアテネ市民のレジスタンスによりローマ正規軍が多数投降する、などという珍事も発生している。1941年、北アフリカ戦線では捕虜収容キャンプ内で英軍捕虜4000人が暴動を起こしたが、ローマ軍守備隊はこれを制圧できず捕虜の大部分を逃している。またアフリカでは陸揚げしたばかりの1000台以上のトラックが一晩のうちに行方不明になったり、高級参謀がアラブ人の盗賊に誘拐されたりもした。このように戦争に対して準備がままならないまま参戦したローマであったが、42年頃から装甲師団の編成が完了してから対ソ戦で少なからぬ活躍を見せている。それでも連合国相手に国力の劣勢は自明であり、1943年にはシチリア島に英軍が上陸した。これを受けてムッソリーニは退位し、1943年8月に共和制が復活した。元老院は直ちに連合国に講和するのではなく、まず英国に接近した。ローマの狙いはなるべく有利な条件で講和を結び、速やかに戦争から離脱することだった。一方英国としてはヨーロッパへの上陸作戦を控えている中でローマが降伏した場合、ドイツ軍がイタリア半島を攻撃することが想定され、戦線が新たに生まれる危険もあった。またすでに連合国内部に米国・英国とソ連の対立関係もあり、ローマが早期降伏することで南欧に対するソ連の影響も懸念された。両国の利害は一致し、43年8月18日にロンドン協定を結び、パリを連合国が奪還するまでは国際的にローマは枢軸国として維持されることとなった。その後西部戦線と北アフリカ、地中海の3戦線ではローマは事実上連合国と休戦状態に入りながら、東部戦線ではソ連軍と戦闘が続いた。西部の軍を全て引き抜いたローマは100万人規模のロシア戦域軍を再編成し、講和まで比較的優勢に戦線を維持した。
 ロンドン協定は以下の内容から成っていた。
  • ローマは協定締結の時点で米国、英国、フランス、オランダその他の民主主義国家と休戦状態に入る
  • ローマ軍はソ連軍およびこれに関係する軍事勢力とは戦闘を継続する
  • ローマは、持っている枢軸国側の情報を提供する
  • 英国は地中海でローマ海軍に燃料を提供する
  • ローマは連合国がパリを奪還するまでは降伏しない
 1944年9月3日、ローマは連合国に降伏。ロンドン協定とソ連軍への戦いの評価により、厳しい制裁をほとんど課されることなく戦後社会に復帰していくこととなる。
 戦後ヨーロッパの中で国土に直接被害をほとんど受けていなかったローマは経済の立て直しも早かった。1949年以降復員兵らの結婚により2回目のベビーブームが発生。1950年台後半からは植民地への工業製品の輸出などにより経済成長率が7%台で推移する経済黄金期が到来。しかしながら海外領土を含めた国土へのインフラ投資は十分とは言えず、さらに前述した自然災害への対策は現代ローマの重要課題となっている。2008年に行われた国民への調査で、「あなたは共和制に満足していますか?」という質問に対し71%が肯定的に回答した。元老院と執政官府は、概ね支持されているようである。
 

政治

ローマの政治システム

 ローマの政治システムは古代共和制時代のものを概ね踏襲しているため、広く西洋諸国家で見られるような政治的常識とは異なる場合も多いのでその理解には充分注意が必要。
 議会制民主主義に類似して元老院(定数:140)と庶民院(定数:472)がある。元老院議員は庶民院議員経験者から選出され、独自の納税義務や必ず兵役を務めるなどの条件がある。これはかつてのローマ元老院は市民を代表する特権階級である誇りと責任から平時から自身の荘園から兵力と穀物を提供したり、国家への貢献も求められたことによる。しかしながら元老院は庶民院に対してあらゆる面で優先権があり、庶民院で議決された法案の拒否権がある一方で庶民院は元老院提出の法案を承認はできるものの拒否はできないなど、上院が優越している特徴がある。さらに外国との条約は元老院にのみ審議権がある。さらに、議員たちの中には一定数貴族がいたり、実業家や大農園主がいるなど社会的地位も高い傾向にある。
 元老院から選出されるのが執政官と執政官府の大臣たちである。執政官は元老院が、各大臣は執政官が任命する。執政官の任期は4年で、3選を超えて続投する場合はその都度国民投票により審議される。執政官府の大臣たちは、通常○○長官と呼ばれる。

執政官

 執政官の主な権限は以下の通り。
  • 執政官府の各大臣の指名と任命
  • 宣戦の布告
  • 条約の承認と署名
  • 軍隊と共和国親衛隊の指揮
  • 非常事態宣言等の宣言の発令、撤回、解除
  • 執政官令の布告
  • 元老院が提出したあらゆる議題の拒否権
  • 元老院の解散権
 なお、宣戦の布告は元老院から要請されて執政官が行うこともできる。また、執政官が宣戦布告を出しても元老院がこれを承認しなかった場合、執政官は100日以内に軍を撤退させなければならない。この点に関してのみ、元老院に対して拒否権を行使することができない。さらに元老院の解散についてであるが、これは元老院が執政官に対し不信任状を出した場合に執政官は辞任(この場合執政官府は解散)するか、または元老院の解散を選択しなければならない。

執政官府

 諸外国でいう内閣や閣僚に相当するが、民間人から選出することができない。執政官府の成員は全て現役元老院議員か、または元老院議員経験者である。ローマの伝統的な政治システムをわかりやすく説明するために、各長官は大臣と呼ばれることもある。また通常内務長官が非常時の執政官代理を兼任することが多い。ローマには副首相のような職はないが、それに類似した役職が執政官代理であり、非常時、また執政官が不在の際に執政官の職務を代行する。1987年までは40歳以上という年齢制限があったが、廃止された。現在の教育長官は史上最年少の33歳の大臣である。
 執政官府の構成
  • 執政官
  • 内務長官
  • 外務長官
  • 財務長官
  • 国防長官
  • 司法長官
  • 教育長官
  • 商務長官
  • 食糧長官
  • 保健衛生長官
  • 国土運輸長官
  • 環境長官
  • 自然災害対策長官
  • 国家宣伝長官

元老院

 元老院の政治家の任期は最長8年で、定数は140名と決まっている。元老院議長は引退後終身議員資格をもち、このほかに特に国家に対し類をみない貢献をしたものにも終身議員資格は与えられる。このため常に一定数の終身議員がいる。かつての古代ローマでは執政官の権力を元老院が厳しくコントロールしていたが、現代のように目まぐるしく変化する国際社会に対処する上では、やはり最終決定権を持つ国家元首が必要である。そのため現代の元老院は執政官と互いに補完しあう関係にあるが、今でも宣戦布告や国際条約など一部の点で元老院の権限が認められている。なお、ローマでは西洋で一般的に見られる下院の優越の原則がなく、元老院を上院と見るならば上院が優越する構造となっている。

庶民院

 かつては「ローマ市民議会」「人民議会」などと呼ばれていた時期もあった。任期は4年間で、定数は470+2の472名。うち2名は海外領土からの代表が派遣される枠である。ローマでは下院の優越原則はないが、元老院の行き過ぎを厳しくチェックし、また国民に近い立場として民意を反映した政策や法律の提案を行うなど、非常に大切な責任がある。

司法

 ローマには国民の権利を擁護し、また犯罪に厳正に対処するための裁判所が4つある。より高級なものから順に、最高裁判所、上級裁判所、普通裁判所、そして簡易裁判所である。このほかに違憲問題や国際法と国内法の調整などを審議する場として憲法裁判所が置かれている。ローマでは人道と冤罪の観点から、国家転覆罪以外の全ての刑罰で死刑が廃止されている。またあらゆる人権に反する拷問や苦痛を伴う刑罰も憲法によって禁止されている。
 ローマにおいて司法権を有する公務員は軍の憲兵組織を除くと国家警察と交通警察の2種類がある。前者は通常の警察業務を行うが、交通警察は高速道路や鉄道、空港など交通機関に関係するものを担当する。また国境検問所に駐在し、不法入国を取り締まるのも交通警察の担当である。

経済

 ローマ経済の長年にわたる課題は、国内に競争力のある有力企業が少ない点と、IT産業や先進技術に関係する第三の産業か弱い点であった。しかしながら20世紀半ば以降、造船や航空機といった重工業や、端末製品を扱う企業を国家が支援しテコ入れすることにより少しずつ有力な企業が育ち始めている。規模の大きな企業としては、ローマ国有鉄道、オービス航空、ディーゼル、オリナスなどがある。また、かつてほどは従業人口が減ったものの依然として農業や食品業はローマの基幹産業の一つである。アフリカの大規模プランテーションで生産されるコーヒー豆やカカオ、サトウキビ、また本土で生産されるワインやチーズ、パン、パスタ、食肉はいずれも高品質なものとして高い評価を受けている。

マフィアと地下経済

 ローマ経済のもう一つの課題は、深刻なマフィアによる地下経済活動が挙げられる。マフィアたちの経済活動規模がどれほどのものなのかは推測するしかなく、専門家によって算出される数値もまちまちであるが、推計で7〜20兆円、多いもので30兆円(約4200億リラ)ほどという予想もある。実に毎年ローマのGDPの1割前後が非合法な活動により乱費され、さらに納税もされていないことにより国益も損なっているという深刻な問題がある。マフィアたちはローマの経済範囲が拡大するにつれて彼らの活動も拡大させてゆき、アフリカでの野生動物の密売、原油の闇売買、臓器ビジネス、非合法な医療ビジネス、難民の不法入国・滞在の斡旋、違法薬物の商取引など様々な活動を行っている。地方の警察や官僚と癒着する者もあり、問題となっている。

教育

義務教育

 ローマではその時点でローマに滞在している該当する年齢の児童は義務教育を受ける権利がある。これは権利であり、文化また宗教的背景からローマの公教育の一部、または全部を拒否する自由も認められている。
 義務教育は小学校5年制・中学校4年制の計9年間であるが、98%以上はその後の教育を受けている。ローマでは幼稚園から大学や職業訓練校まで全て無料で提供されており、期間中はスクールバスの送迎や教科書、また給食がある学年は給食も含めて全て無償である。これらは税金で賄われているが、子供たちが未来の国を作るという考えが長年国に根付いており、国民からの理解も得られている。1990年代以降外国語教育が盛んであり、小学2年次から第一外国語が、中学1年次からは第二外国語を学ぶこととなっている。第一外国語は英語(アフリカ等一部の地域ではイタリア語または英語)を、第二外国語はイタリア語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・中国語・日本語の中から一つ選択する。この期間中に第一外国語の運用力をCEFRのB2レベル、第二外国語をA2レベルにまで向上させることが目標にされており、実際にローマの学生の外国語力は高い。2006年にローマ政府が中学生2年生を対象に全国で実施したIELTSの平均スコアは6.2であり、この結果を踏まえるに政府の教育政策は成功していると言えよう。

専門教育

 ローマ人の子供が中学生卒業後もなんらかの教育を受けたい場合、幾つかの選択肢がある。最も多くの子供たちが進学するのが予備校であり、これは大学入学資格を得るためにさらに高度な教育を受ける学校である。卒業試験は3日間かけて行われ、また卒業論文があるなどさながら大学のような学校である。
 別のものに職業訓練校がある。3年制のこの学校では様々な職業にスムーズにつけるための実学的な教育を受ける。介護や看護、また土木工事などの技師になる者はここで学ぶ必要がある。この学校の卒業資格は国家資格であり、また卒業後は学校と自治体による手厚い就職サポートを受けることができる。入学に年齢制限がないため、社会人になってからでも入学することができる。授業料は完全に無料。
 最後に高等技術学校と軍学校を紹介したい。高等技術学校とは21世紀に入ってから生まれた新しい学校で、より高度な技術が求められるエンジニアやIT開発者などを養成する5年制の学校である。この学校を卒業すると大学の卒業資格に準じた扱いを受けることができるため、卒業後にさらに専門的な内容を求めて国内外の大学院に進む者もいる。専門教育と実務教育を合わせたようなカリキュラムが行われている。軍学校は軍が管轄している学校で、中学校卒業以上の者に入学資格がある。代表的なものが士官学校で、卒業後は軍の下士官となり部隊の中枢で任務にあたることになる。

大学

 ローマの大学の歴史はヨーロッパの中でも古く、ローマ大学、ミラノ大学、アリオン大学、コリントゥス芸術大学、キリスト大学など歴史ある有名な大学も多い。中でもミラノ大学は国内最大規模で41学部と7つの附属校、学部学生だけでも10万人を超す学生を抱えるマンモス校である。
 近年ローマでは授業料無償という利点から海外からの留学生が増えており、それに対応するためのコスト増長と授業や学生の質の低下が懸念されてる。それでも政府は当面の間大学の授業料無償制度を維持する方針である。
 

医療

 6歳未満、または教育を受けている21歳以下の国民は無償で医療にかかることができる。国民皆保険制度があり、公立の病院では非常に安価な値段で受診することができる一方、慢性的な医療体制のキャパシティ不足によりどこの病院も常に混んでいる。このため民間の保険に加入し、私立病院を受診する者もいる。
 なお、ある種の特権階級とされている元老院の議員は国民皆保険の制度枠外であり、医療は全額実費を支払うこととなっている。

国際関係

 自由主義体制の西洋国家として、基本的には全方位外交を掲げつつ民主主義国家と結びつきを強める傾向にある。

NATOの一員として

 現在ローマは、イギリスを中心とする北大西洋条約機構(NATO)の一員となっている。世界経済の4割強を占める巨大な経済圏でもあり、さらに軍事的政治的な繋がりも強化されている。
 2021年1月、北大西洋条約機構軍はロシャーナを中心とする国家群と戦争状態に入ったが(ヨーロッパ・アジア戦争)、ローマは軍事的な対立を嫌い参戦しなかった。それでも、依然NATO陣営の国である。

トルコとの関係

 1845年以来トルコとは強力な同盟関係にある。19世紀にタンズィマート改革を進めるアブデュルメジト1世と、低迷するローマが接近したことで両国の関係は発展する。その後ケマル共和制時の断交を挟み、メフメト7世の治世に再び同盟関係を回復させている。地中海の真ん中と東側にある両国の同盟関係は地政学上極めて重要な意義を持つ。まずこれにより長年ロシアへの牽制となり、黒海を超えて地中海に入って来れないようになっていた。そして地中海の東半分がローマ・トルコの影響下に置かれることともなった。
 両国は近年経済・技術的な協力関係も加速させている。先進技術の共同開発や研究の促進に期待されている。

軍事

 徴兵制があるが、良心的兵役拒否またその他の理由による兵役辞退が法律で認められている。この場合代替役務があるが、これも拒否する者は処罰の対象になる。その内容は具体的には介護施設や清掃局、葬儀場、建設現場、救急、ライフセイバー業務などへの従事である。これにより総兵力は常に兵役受け入れ定数の85%前後を推移している。
 NATO製の兵器を導入する傾向にあるが、必ずしもNATOのドクトリンを全て取り入れているわけではなく独自の用兵思想などもあるため国産兵器も導入されている。

ローマ陸軍

 古い歴史を持ち、ポエニ戦争やガリア戦役など、古代から活躍してきた伝統ある軍隊である。総兵力は47万人。現代では海外領土を除いて機甲兵力を削減する傾向にあり、その代わりに自走式の火砲を導入している。これによりより安いコストで特に本国を地形に合わせてより柔軟に防衛しやすくなっている。アルプス山脈を持つローマ特有の部隊として、山岳師団がある。アルプスの雪原をスキー部隊が移動する様子は有名。伝統あるローマの歴史を強調して、Exercitum Romanum(ローマの陸軍、ローマの軍隊)の名前が付けられている。
 なお、海外領土で活動する陸軍はアフリカローマ軍と呼ばれる。

ローマ海軍

 陸軍の次に古い伝統を持ち、Classe Romana(ローマの海軍)の名を持つ。地中海とアフリカ大陸沿岸部で活動し、常設3個艦隊と複数隻の中型空母からなる空母機動部隊などを保有する有力な海軍である。国家財政に伴ってコンパクトな軍隊運用が求められており、艦艇の自動化・省エネ化が進められている。またローマ海軍は外洋海軍としての性質をもちながらも太平洋のような大海原で長期航行することは想定されていないため、現在は大型の空母打撃群よりは小型〜中型の空母や強襲揚陸艦を好む傾向にある。なお、ローマ海軍では全通甲板を持ち、揚陸機能に加えて大量の物資を運搬できる補給能力をも備えた艦を強襲揚陸艦ではなく「多目的艦」と呼んでいる。
 ローマの核戦略は潜水艦によるSLBMに依存しているため、唯一の核兵器を運用する部隊でもある。総兵力は約17万人。

共和国空軍

 1920年創立の新しい軍であるため、ローマ軍の名称が付いていない。ローマは航空機大国でもあり、偵察用の小型機や輸送機、練習機などを国産化しているほかかつては国産戦闘機も生産していた。現在ではNATO製の戦闘機を導入しているが、再び国産戦闘機の開発計画もある。地中海と本土の制空権を守るために300機程度の戦闘機を持つほか、攻撃ドローンのコストパフォーマンスに注目し世界の中でも積極的に取り入れている空軍である。地上要員合わせて総兵力は13万人ほど。

海兵隊(ローマ海兵隊)

 第二次世界大戦中、マルタ島上陸のために訓練された部隊が前身で、最も新しい軍。外征部隊ではなく、離島・海外領土奪還や敵が本土上陸した際に強襲逆上陸することが前提とされており、また制空権が見込めない中での浸透・攻撃も想定されている。このため特殊部隊としての性質も併せ持っている。モットーは『大胆不敵であれ!』であり、常に恐れを克服し果敢に攻撃していく部隊である。編成は2個師団1個大隊から成る約5万名規模となっている。後述する国家親衛隊と並んでローマ軍の精鋭部隊として知られている。

国家親衛隊

 首都ローマ(一部はナポリ)を防衛するための専属部隊である。所属は陸軍だが独立指揮部隊。その起源は古くローマ皇帝直属の1000人部隊と言われており、その後ローマの変化に伴って次々と形を変えながら現在に至っている。今では皇帝や元老院の直轄ではなく国防省の下部組織の一つであるが、それでもエリート師団として首都を警備する重要な任務を持っている。その素性は訓練内容も含めて一切明らかにされておらず、人員数も正確なものは不明である。しかし、2018年の4軍合同訓練において1500人もの部隊を派遣していたため、少なくとも数千人〜1万人ほどで構成されていると予想される。司令部はローマ市内にあり、普段は大都市ローマおよびナポリ市警察と連携して対テロ警戒などにも就いている。
 

交通

 「Omnes viae Romam ducunt(全ての道はローマに通ず)」と言われているほど、かつては地中海世界だけでなくヨーロッパや中近東メソポタミア世界に至るまで、数え切れないほどたくさんの道路が最終的にローマに通じていた。このため古代から道がよく整備されており、イタリア半島だけを例にとって見ても馬車や馬を走らせる必要から幅の広い舗装道路が多く、これが21世紀の自動車時代にまで規範となっている。

自動車道

 一般道路と高速道路を合わせると、大きな道路だけでも192本、ローマ市と直結している道がある。古い道ほど幅も広く、それらは現在高速道路などに転用されている。ローマの高速道路は1940年より建設が進められ、1979年までにはほとんどが完成している。首都ローマと国内第三の都市ナポリを結ぶA1号線はローマの大動脈とでも言うものであり、250km以上の道のりを片側4車線で結んでいる。制限速度は最も車線数の多いA規格の道路が160km/h、都市内高速を含むその他の道路が130km/hとなっている。しかしながらローマ人ドライバーはスピードを好む者が多く、ほとんどの時間帯で法定速度が守られていないため、これまで繰り返し制限速度は引き上げられてきた。法定速度と実速度の差を解消するためである。だが、これにより事故も増えており、年間1万4000人以上が事故で亡くなっているため、速度制限をより厳格に定めるよう求める声もある。高速道路は税金により賄われており、不定期に実施される集金日に通行している車は通行料を支払う必要があるが、それ以外は完全に無料である。このため古いものにはサービスエリアが設置されておらず(無料故道中どこかで休憩するという概念がなく、途中で降りて食事やトイレが可能なため)、今でも定期的な距離で設置されているのらA規格道路など一部に限られている。
 自動車免許は15歳から取得可能で、先進国の中でも早い。教習所などはほとんどなく、大抵は親から教わる。いきなり路上教習になり、そのまま大抵の者はいきなりドライバーになる。このため全国的に定められた交通ルールもあるにはあるのだが、ローマ人は交通マナーがよくない。特に、Mから始まるメーカーの車に乗っているドライバーは最悪であり、このiで終わる高級車ブランドは少ない数がDQNカーのイメージを持っている。

空港

 地中海世界の玄関口として、レオナルド・ダ・ヴィンチ=ローマ首都空港をはじめ、カッシーニ空港、ポンペイナポリ国際空港、ミラノ国際空港、アリオン国際空港などがある。このうち最大規模のものが国際空港のレオナルド・ダ・ヴィンチ空港と国内線専用のカッシーニ空港であり、どちらもローマ市にある。
 なお、ここでローマの航空事情について記述しておきたい。ローマ人は航空機への関心が非常に強く、それを後押しする航空機メーカーや民間団体の存在もあって個人用セスナ機の保有率が世界最大規模。国内には至るところに1000m級の滑走路を持つ飛行場があり、週末には自家用プロペラ機を飛ばす人たちで賑わう。航空機はレンタルすることもできる。

鉄道

 山が多く地震大国ということもあり鉄道の建設は比較的ゆっくり進んだ。高速鉄道がローマと各地を結んでいるが、日本と高速リニア鉄道を共同開発、もしくは輸入する計画がある。
 

国民

 国民の3割以上がフランス系かドイツ系のどちらかを先祖に持つ。また、海外領土の影響もあり総人口の1割強が本土以外から来た移民及び外国人であり、移民国家としての側面も持つ。
 他の先進国同様、少子化が問題となっているがアフリカからの移民は子だくさん傾向が強く、国全体の合計特殊出生率は1.57となんとか持ち堪えている。ローマの少子化の最大の原因は、結婚するまで男女ともに実家を出ず親と暮らす文化的な背景であると考えられている。実家暮らしのままでは恋愛や婚活も進めにくく、余計に結婚が遠のく。そしていつまでも実家にいる、という負のスパイラルである。事実調査によると18歳から34歳の国民の40%ほどが現在恋人・配偶者がいないというデータがあり、さらに驚愕なのはそのうちの8割は一度も交際経験がないという点だ。現代ローマの闇を浮き彫りにしていると言えよう。
 一方でローマ人は長寿国民でもあり、平均寿命が男80.86歳、女87.05歳となっている。2020年現在、第一次世界大戦を経験した国民が少なくとも1万人以上存在していると推測される。
 

文化

ローマ料理

 ローマの文化を紹介したい。まずは料理から紹介する。
 意外に思われるかもしれないが、ローマ料理はフランス・ヴィンシュタインの文化の影響を強く受けている。ローマでは古来から食べられていたのはピッツァであり、ローマ人がパスタを食べる習慣がついたのはここ300年ほどだからである。ピッツァは国民食であり、座って食べる形式のリストランテやトラットリアからスタンド形式の町の売店まで、至るところで食べることができる。ローマのピッツァの基本はチーズとニンニクを十分に加えて味付けしたトマトソース、それにバジルとオリーブオイルである。これだけでマリナーラピッツァの完成だ。さらにこれにオリーブの実や少量の野菜を加えると今度はマルゲリータピッツァとなる。チーズの変化を楽しみたい場合クアトロフォルマッジといって、4分の1ずつ違ったチーズを楽しめるピッツァが、さらには海鮮の具をふんだんに入れたピッツァ・ペスカトーレ、バジルの香り高いジェノヴェーゼピッツァ、クリームソースとポテトや肉を入れたクリームピッツァ、家庭料理としても人気の高いグラタンピッツァ、半熟卵を割って楽しむビスマルクピッツァなど名前をあげたらキリがないほどである。ローマのピザはピッツァと言い、基本的には1人で1枚を食べるのが普通。しかしながら近年食の欧米化がローマでも進みつつあり、都市部などでは数切れごとに買い求めることのできるスタイルも増えていたり、新興大都市アリオンでは移民の影響でチーズとペパロニだけで作ったアメリカのようなピザなども見られていて、ローマ料理も時代によって変化しつつある。



ローマのピッツァ

 ローマ人は古くから海の幸を取り入れてきた。このためイカやタコはもとより、サシミなどの生食にも比較的抵抗がないとされている。魚を使った料理は特に種類も多く、チョッピーニと呼ばれる様々な魚の出汁で作ったトマトソースにシーフードをふんだんに入れたスープはそれ単体でメインの料理となったりする。前述したように生食に抵抗があまりないため、寿司も人気。ローマなどの大都市ではよく見られるようになってきている。
 ローマ料理にはドルチェが欠かせないが、もう一つローマの食文化を代表するものが歴史の項目でも説明したチョコレートである。ローマ人はチョコレートが大好きで、カカオ豆の生産量、チョコレート生産量、加工量、国民一人当たりの消費量いずれも世界トップクラス。特にアフリカの大規模プランテーション開発が進んだ結果、世界中に流通するチョコレートは豆・加工品を問わず実に8割近くがローマ製かローマの影響を受けている製品である。ドルチェにもチョコレートは取り入れられるようになってきており、ガトーショコラケーキなどが人気。十分に冷えたチョコレートにも、温かいホットチョコレートにも生クリームを加えるのがローマスタイルである。

スポーツ

 スポーツ大国とは呼べないかもしれないが、サッカーや水泳、フィギュアスケート、レーシングスポーツなどで優秀な成績を収めている。特に男子サッカーは国民的スポーツであり、国内には十分に質の高いクラブチームとリーグ体制がある。なお、国内の優勝最多チームはスパデツィオーネ・ミレ・ローマである。レーシングスポーツに関しては国内からランボルギーニ、フェラーリ、マセラティなどが参加している。

宗教

 国民の大多数がキリスト教カトリックを信仰する。ローマ市内の聖ペテロ教会はカトリックの総本山としても知られる。
 憲法によって信教の自由が保障されているため、キリスト教以外にもたくさんの宗教が信じられている。あまり多くはないが、国内には仏教寺院やイスラム教のモスクもある。

愛の国ローマ

 ローマは愛の国であり、ローマ人は愛に生きる。近年インターネット上ではローマ人の男はナンパばかりしている、などと目にすることが多い。そうした場ではローマ男性に対する以下のようなステレオタイプが見られる。
  • オシャレ
  • 女性をみたら口説かない方が失礼
  • なんとなくかっこいい
  • ナンパが趣味
  • ストリートナンパ、ワンナイトラブ、旅先での一夜の関係などは当たり前
  • 不倫に寛容
  • 女性への気遣いに長けている
  • レディーファースト、紳士
  • 美女を巡って命がけで戦う
  • 愛する女性のためなら英雄になる
  • デートがスマート、エスコート文化
  • ベッドの上では獣
 なお、これら全てはあながち間違っていない。彼らは愛に行き、愛に死ぬ男たちである。ローマは愛の国であり、燃え上がるような情熱を持っているのだ。


 …が、これらは過去の話である。若者の恋愛離れが問題になっている。若い男女は自分に自信がなく、自分から異性に近づいていってアプローチしてやろう、とガッツを持った若者もどんどん少なくなっている。その結果、30代40代になっても恋人が一度もいたことのない者がもはや者珍しい存在ではなくなっており、恋愛至上主義のローマにおいて少子化の大きな原因となっている。あるローマ人男性は日本人から「でもローマ人だからモテるんだろ?いいよなぁ、毎日違う女と寝て毎週違う女とデートするんだろ?」と羨望をぶつけられた際次のように答えたという。


 「…ローマ人が無条件でモテると思うなよ(俺、彼女いないし)」


 ど う し て こ う な っ た
 

観光

 長い歴史を持つこの国には、数多くの歴史遺産がそのまま残されている。現在でも使われている城や教会、水道などが1000年以上前に作られたということもローマではよく見られることである。それらの文化遺産は同国の観光資源となっているほか、これが理由でNATOの文化遺産委員会本部がローマ市内に置かれている。南部の島々のビーチや北部の北アルプスも観光名所である。険しい山ではウィンタースポーツが盛んで、多数のスノーリゾートもある。
 興味深いことにローマには二種類の観光ビザがある。通常の観光ビザ(90日間有効)の他に、試食ビザ(70時間有効)があり、美食の国らしいところでもある。この試食ビザは入国審査終了後72時間有効なものであり、この時間内に出国手続きを含めて出国しなければならない。ローマの食文化を近隣諸国により楽しんで、味わってもらうために設定されたものであるが、特に禁止事項などはないため事実上ごく短期間の観光ビザとしても機能している。政府が認定した「安全で信頼に足る諸国」の出身者は入国時にパスポート提示だけでこのビザを取得できる。美しい自然、アフリカの過酷な熱帯雨林、美味しい食事とワイン、ドルチェを楽しみにぜひいらっしゃい。
 

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