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国旗
国名テソモニア民主共和国
公用語テソモニア語、ロシア語
国歌現在制作中
国の標語честь народа
首都ヤクーツク市
国家元首中の人
政治体制民主主義
面積808万2500km^2
人口118,117,867
GDP81,589億(US$)
通貨ソモ

概要

シベリアに建国されている国家
気温はとても低いが地熱を使ったエネルギーがとても盛んで生活する上で困るほどの環境ではない
約600年の歴史がある

土地は痩せているが国民の努力により今では先進的な生活をできている

国内情報

第1章エルブレーム王国建国から繁栄
*エルブレーム王国誕生



9世紀初頭 アラスカからシベリアに
来たイヌイット族がシベリア内で多民族に対して強い力を持ち始める。

1237年 拡大を続けていたモンゴル帝国と戦争になるが当時の一部地域の首長(当時シベリアにはイヌイットによる部族が十数あり、首長もたくさんいた)であるヤキビックの見事な采配によってイヌイットの土地は守られた。またこのことにより、ヤキビックに対する信頼が大きくなっていく。

1242年 ヤキビックに自国を占領されることを恐れた一部の首長がヤキビックに対して反乱を起こすがヤキビックの元には絶大な民族からの信頼があったためこの反乱はすぐ鎮圧される。
これにより他首長の信頼は落ちていった。


1259年 ヤキビックが全ての権限を持1つスペンキという役職を設立彼は初代スペンキとなり、エルブレーム王国の設立を宣言。また名前をエルブレーム1世に改名する


*エルブレーム内乱から権力の安定
1371年 エルブレーム1世が死去。(エルブレーム1世は約150才まで生きたと考えられ、エルブレーム1世は存在しなかったでは?という考えもある)南にいる北元との闘いの最中になくなったため、彼の正当な後継者は決まっていなかった。
そのため長男のドムストートゥリン、次男のバーンドゥン、三男のスネフトゥの3人と、北元(元が明に土地を追い出されたときの国家)が派遣したエルブレーム傀儡化計画の隊長であるザクヒラグチの4人が自分がスペンキであることを主張。
その結果、長男のカムチャッカエルブレーム、次男のサハエルブレーム、三男のマガダンエルブレーム、匈奴エルブレームの4ヶ国ができる。(四方面エルブレーム時代)
彼らの争いは60年続く…

1412年 カムチャッカエルブレームで宰相をしていたナウルがクーデターを起こし、カムチャッカエルブレームのスペンキとなる。彼はその後五年掛けて圧倒的な国力をつけた。


1419年 カムチャッカエルブレームがイルーツクエルブレームに宣戦布告。
他の二国も、イルーツクエルブレームが倒されたあと滅ぼされると考え、マガダンエルブレームと同盟をくみ、カムチャッカエルブレームを滅ぼそうとし、ヴァン連合を作り出した。
それに対し、カムチャッカエルブレームは、近隣に位置する、十数の小国の連合アース連合に、ヴァン連合と戦争をさせるように仕向けた。
そして、自国はヴァン連合と一時休戦をした。

1421年 中世中央アジアにおける最大の闘いアース・ヴァン戦争が勃発。
両軍の死者は12000人に及び両国は、壊滅的な状況となった。


1422年 カムチャッカエルブレームは1月にヴァン連合に宣戦布告。
先の闘いで甚大な被害を受けた、彼らに抵抗する力はなく、同年6月に全面降伏、全併合される形となった。
ナウルは四方面エルブレーム時代を終わらせることができたが彼のやり方は実に非道な者だったので、現代における彼の行動は、賛否両論がある。


1423年 ナウルは正式に二代スペンキにつき、これからもまた分裂が起きることを避けるために、次の王について『即位中の王が次の指導者を決定しない限り、原則としてその王の長男があとを継ぐ』と定めた。(エルブレーム法典)
この定めにより、300年近く跡継ぎによる問題は起きなくなった。


*エル露戦争
1744年に22代スペンキのルーギュ=ヘンリー(ナウル8世)は病にかかった。
しかし彼には世継ぎとしての男の子が産まれてこなかった。3カ月におよぶ王と州長による会議の結果、ルーギュ=ヘンリーの長女であるセドナ・ドムストートゥリン(セドナ1世)を23代スペンキにすることを決定した。またこの会議はカムチャツカで行われたためこれ以降国の最高評議会は、カムチャツカ代表議会と呼ばれる。


1745年 8代スペンキ ルーギュ=ヘンリー死去。これにより初の女性スペンキとしてセドナ1世が23代スペンキに就任する。


1748年 セドナ1世が『エルブレーム12ヵ年計画』を発表。
この計画には以下の5つの目標が立てられていた。

1.全種族による挙国一致(当時エルブレームには、イヌイットの他にも、ロシア人、モンゴル人、アイヌ人、漢民族などがいた。)

2.周囲国に対抗できる武力の保持(当時エルブレームの周りには、ロシア帝国、清、江戸幕府など大国が存在しており、特にロシア帝国からは多くの侵略攻撃を受けていた。)

3.農作物収益の安定化(エルブレームの土地の多くは、永久凍土と呼ばれる作物の育ちづらい場所に位置していたため農作物の多くを他国から輸入していたため金銭の支出がかなり多くなっていた。)

4.軍隊の正しい編成及び徴兵制の設定(エルブレームは元々国としての軍隊を持って折らず敵に攻められたらその土地の住人が防衛に回っていた。そのため自国は守ることはできても不利な和平条約しか結べなかった。)

5.ヨーロッパ諸国への視察による文化の向上(当時のエルブレームは他国から文化があまり入ってこなかったため、一部の臣民は洞窟に暮らしていたとさえ考えられている。)


1762年 新皇帝となったピョートル3世が南下政策の一環でシベリア侵略を決定。(エル露戦争)
5万人のロシア帝国軍(第一次エルブレーム合戦)がエルブレームに攻めてきた。
しかし、エルブレーム軍は12ヵ年計画を完了しておりヨーロッパ諸国に引けをとらない軍事大国となっていた。結果としてロシア帝国軍は惨敗し、セドナ1世はロシア帝国に対して自分達が優位になるような条約の締結を求めた。
しかしそれに対し、ピョートル3世は条約の締結を破棄し、6月にロシア帝国軍30万人を送り出す(第二次エルブレーム合戦)
だが、30万人の軍を送ることにより、それまで関与していたオーストラリアプロイセン戦争を継続することが難しくなり、プロイセンと講和を結んでしまう。
その結果今まで侵略していたプロイセンの領土を手放すことになり、ロシア帝国内でのピョートル3世に対する不満が徐々に高まり、エカチェリーナ2世によるクーデターにより、ピョートル3世は退位する。エカチェリーナ2世は国の動乱を沈めるためにセドナ1世からの講和条約を飲むことにした。
また、エカチェリーナ2世はシベリア侵略をしても、あまりいいものが手に入れられず、自軍の兵士がただ消耗するだけと考えエルブレームと、100年の不可侵条約を結ぶ。また当時最強とも言われていたロシア帝国軍を倒したと言うことは世界中に広まり、エルブレームは東アジアにおける大国という地位になった。またこのときに首都をヤクーツクからウラジオストクに変更した。

1770年 エルブレームを一大国家にしたセドナ1世は亡くなった。彼女は現在英雄として奉られている。また彼女の死後もスペンキたちはセドナ1世と同じような改革をしたため国は安定をした。
*エルブレーム最大の危機から最盛期へ
1867年 32代スペンキに二人目の女性スペンキであるユミル・ヤキビック(セドナ2世)が即位。
その頃のエルブレームは成長を続けており、1798年に伝わった蒸気機関により、国の産業は大発展をしていた。
国の産業が発展することによりシベリアの永久凍土が少しずつ温められ解けていった。
すると、その永久凍土の下にあった可燃性のガスが少しずつ地上に漏れていった。
そして、同年6/6。
ある工場から始まった火事はたった1時間でウラジオストクの9割が焦土となった。幸いにもその工場が町の外れにあったため宮殿は焼けてしまったものの、王族や一部の臣民が逃げることができた。
しかし、ウラジオストクの臣民の4割がこの火事で亡くなり、数ヶ月の間国の行政機関は止まり失業者も町中に溢れ出し、経済成長率も一ヶ月あたり-5%という大恐慌に陥っていた。(エルブレーム大恐慌)
国が財政破綻するのも時間の問題だった。時のスペンキのセドナ2世は、国の財政復帰のための計画をし、国を立て直そうとする。


1871年 スペンキのセドナ2世は、国の財政復帰のための計画として、火事のもとであったガスの販売を決めた。
このガスはのちにメタンハイドレートと呼ばれ、当時エネルギーの元であった石炭や石油の何倍も効率が良く、当時のメタンハイドレートの価格は1リットル/50オンス(オンスは金の単位一オンスが13.5ドル4860円だった)という高価格で取引された。すると、去年のエルブレーム大恐慌は無かったかのような空前の大繁栄を迎えた。このころの臣民は莫大な金を持っており、その金をお金に両替すると当時の国の国家予算5000年分という天文学的な数字だったと言われる。

こうしてエルブレームは大繁栄を迎えるがこの30年後国が滅亡するとは誰もが思わなかったであろう。
第2章エルブレーム王国の衰退からテソモニア革命
*エルブレーム王国崩壊の序章
1881年 国家滅亡の危機から経済を回復させ、好景気を作り出したセドナ二世は崩御した。(彼女の死因は急性リンパ性白血病ではないかと考えられている。)
彼女は後継者として長男のクレトゥルタを指名し
、彼はドムストートゥリン四世として33代スペンキとなった。
彼は母親である、セドナ二世を深くしたっており、自分自身も国の成長のために努力を惜しまないような性格だったが、あまり学力は良くなかったと後世に言い伝えられている。

1882年 彼は国を成長させるための最初の戦略として新しい鉄鉱山の開発を宣言した。。
その背景としてこれまではヤクーツク城から西に数百キロ行ったところにあるタネストリア(現在のタンネンベルキア州西部)という鉱山町で多くの資源を賄っていたが首都がウラジオストクになって
から安定したことによりタネストリアからウラジオストクまでの輸送を2年前に作られた鉄道だけでは供給が追いつかなくなりつつあった。

彼は鉱山をヤクーツクからウラジオストクを結んでいる鉄道の周辺に探すことを命じローリスト家が保有する鉱山に目をつけた。(現在のローリンダム州中南部)
早速国はローリスト家から鉱山を購入しどのくらいの資源が埋まってるか調査を行った。
その結果、クルトーナ川近くに多くの鉱物資源が埋まってることが発覚。
一部の臣下はクルトーナ川周辺で鉱山をとると下流にある首都ウラジオストクに何らかの問題が発生するかもしれないと忠告したが
王は「危険を侵さなければ国が発展することは無い」と言い、その意見を退けた。
その後、この鉱山はエルヤウマと名付けられ国内有数の鉄の産出地となった。
*クルトーナ川 大氾濫事件

1884年 3月樺太島から北へ50kmの海上で大地震が発生。(この地震のマグニチュードは8.1と言われている)
当時の言い伝えを参考にすると多くの地域で地割れが発生し、樺太北部など約150kmの海岸に渡って津波が押しよせ、ウラジオストクの港では液状化と思われる現象も発生したと考えられている。
震源からそう遠くなかったエルヤウマでも地震の影響を大きく受け、穴だらけになっていた山は意図も簡単に崩壊した。
山の崩壊により大規模な地すべりが発生した。
この地滑りは最終的にクルトーナ川までやってきてクルトーナ川の水の流れを土砂が塞いでしまった。
さらに追い打ちをかけるように当時エルブレーム王国のヤクーツク周辺では歴史的大雨となっておりクルトーナ川の水量はとても多くなっていた。その結果クルトーナ川は川の形を大きく変え、その後多くの地域で浸水などの被害が出た。
この氾濫は下流であるウラジオストクにも大きな影響があり、クルトーナ川からウラジオストクに向かう水が減ったことにより大規模な水不足が一時的に起こった。
数ヵ月後にはほぼ全ての対策が終わるものの1871年に始まった国の好景気は完全に沈み不景気が始まっていた。
*エル清戦争
1885年 4月エルブレーム王国は清に宣戦布告をした。
当時、不景気であったにも関わらずエルブレーム王国が清に宣戦布告した理由は主に3つあったと言われている。
1.首都がヤクーツクからウラジオストクに移ってからある程度の年数がたったことにより、国民も貴族も南に行けば行くほど扶翼な大地があると気づいており、多くの人々が国の領土がさらに南へと増えることを望んでいたから

2.王は当時の沈みこんだ国の指揮をあげるためにも清という共通の敵を国民に植え付け国の指揮をあげようとしたから

3.当時エルブレーム王国は近代化に成功していたのに対して清は近代化には成功しておらずそれどころか欧州列強に領土を取られて国内でも反乱が起きかけていたことよりエルブレーム王国が不景気だろうと勝つことが可能だと思っていたから

しかし王の予想ははずれ、清は反乱が起きず、それどころか欧州列強に取られた領土の補充としてエルブレーム王国の領土を狙うために国民が団結していた。
それに対してエルブレーム王国の国民は不景気の状態で戦争をするほど南方に領土欲求があった訳ではなく、ことごとく清に敗北して
最終的にウラジオストクが包囲、ハバロフスクが陥落、ヤクーツク1歩手前まで進軍して来たことによりエルブレーム王国は清と講和を行った。
その結果、清からウラジオストク及びその周辺を取られ、景気を悪化させ、戦争に負け、領土も失った王に対して国民は失望や怒りを感じていた。

*エルブレーム革命
1885年12月9日 ついに国民の不満は頂点に達する
原因としては10月に清との講和を結んだ時に多くの賠償金を支払うことになり税金を重くして国民から搾取をしようとしたからである。
(昔は自分の指導ミスで多くの賠償金を支払わなければならなかったのに王家の財産は使わずそれを国民に押し付けた人間のゴミと考えられていたが近年の研究では王は王家直属の臣下(財務大臣)などからあまり信用されておらず王家の財産の場所を教えてなかったという説が有力である。しかし当時の国民は王家は財産を出し渋ったと考えていた。)
自分の財産は使わずに国民にだけ責任を押し付けて王家に対して国民は反乱を起こした。
最初に反乱が起きたのは税金が増やされることを最初に知らされたハバロフスクであった。
その後ハバロフスクの反乱者たちは規模を大きくしつつヤクーツクに向かっていた。

王は最初、反乱軍を抑えようとしたが貴族たちが反乱者側に着いたと聞き、当時親戚であったロシア帝国家への亡命をした。
ただしドムストートゥリン四世は国を愛していたこともありロシア帝国に亡命後、皇帝に王権復活を手伝うことを提案したが国に血が流れることを考え固辞したと聞いている
第3章社会主義体制確立から現在

領土

我が国の領土は現在のロシアの州区分でいうところの
サハ共和国
アムール州
ユダヤ自治州
ハバロフスク地方
沿岸地方
マガタン州
カムチャツカ地方
チュコト自治管区
サハリン州
以上5527330km²を領有している。

政治

テソモニアは親和党、国進党の二党制となっており
テソモニアの議会であるカムチャツカ大評議会が大統領を選び大統領は4年任期の最大4期までの就任ができる。
大統領は大きな権限を持っている。

行政

テソモニア内閣?を参照
また行政区分に関してはテソモニアの行政区分を参照

司法

自国の司法について書く。

資源

自国の資源について書く。

外交

国交樹立国

陣営

条約、同盟

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