1744年に22代スペンキのルーギュ=ヘンリー(ナウル8世)は病にかかった。
しかし彼には世継ぎとしての男の子が産まれてこなかった。3カ月におよぶ王と州長による会議の結果、ルーギュ=ヘンリーの長女であるセドナ・ドムストートゥリン(セドナ1世)を23代スペンキにすることを決定した。またこの会議はカムチャツカで行われたためこれ以降国の最高評議会は、カムチャツカ代表議会と呼ばれる。
1745年 8代スペンキ ルーギュ=ヘンリー死去。これにより初の女性スペンキとしてセドナ1世が23代スペンキに就任する。
1748年 セドナ1世が『エルブレーム12ヵ年計画』を発表。
この計画には以下の5つの目標が立てられていた。
1.全種族による挙国一致(当時エルブレームには、イヌイットの他にも、ロシア人、モンゴル人、アイヌ人、漢民族などがいた。)
2.周囲国に対抗できる武力の保持(当時エルブレームの周りには、ロシア帝国、清、江戸幕府など大国が存在しており、特にロシア帝国からは多くの侵略攻撃を受けていた。)
3.農作物収益の安定化(エルブレームの土地の多くは、永久凍土と呼ばれる作物の育ちづらい場所に位置していたため農作物の多くを他国から輸入していたため金銭の支出がかなり多くなっていた。)
4.軍隊の正しい編成及び徴兵制の設定(エルブレームは元々国としての軍隊を持って折らず敵に攻められたらその土地の住人が防衛に回っていた。そのため自国は守ることはできても不利な和平条約しか結べなかった。)
5.ヨーロッパ諸国への視察による文化の向上(当時のエルブレームは他国から文化があまり入ってこなかったため、一部の臣民は洞窟に暮らしていたとさえ考えられている。)
1762年 新皇帝となったピョートル3世が南下政策の一環でシベリア侵略を決定。(エル露戦争)
5万人のロシア帝国軍(第一次エルブレーム合戦)がエルブレームに攻めてきた。
しかし、エルブレーム軍は12ヵ年計画を完了しておりヨーロッパ諸国に引けをとらない軍事大国となっていた。結果としてロシア帝国軍は惨敗し、セドナ1世はロシア帝国に対して自分達が優位になるような条約の締結を求めた。
しかしそれに対し、ピョートル3世は条約の締結を破棄し、6月にロシア帝国軍30万人を送り出す(第二次エルブレーム合戦)
だが、30万人の軍を送ることにより、それまで関与していたオーストラリアプロイセン戦争を継続することが難しくなり、プロイセンと講和を結んでしまう。
その結果今まで侵略していたプロイセンの領土を手放すことになり、ロシア帝国内でのピョートル3世に対する不満が徐々に高まり、エカチェリーナ2世によるクーデターにより、ピョートル3世は退位する。エカチェリーナ2世は国の動乱を沈めるためにセドナ1世からの講和条約を飲むことにした。
また、エカチェリーナ2世はシベリア侵略をしても、あまりいいものが手に入れられず、自軍の兵士がただ消耗するだけと考えエルブレームと、100年の不可侵条約を結ぶ。また当時最強とも言われていたロシア帝国軍を倒したと言うことは世界中に広まり、エルブレームは東アジアにおける大国という地位になった。またこのときに首都をヤクーツクからウラジオストクに変更した。
1770年 エルブレームを一大国家にしたセドナ1世は亡くなった。彼女は現在英雄として奉られている。また彼女の死後もスペンキたちはセドナ1世と同じような改革をしたため国は安定をした。