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概要

自由カリブ海同盟軍は自由カリブ海連邦軍の歴史を引き継いでると国防省は説明している。
大規模な組織変更がされている訳ではなく名称と1部軍規が変更されたに過ぎないため未だに連邦軍と思っている国民や退役軍人も数多くいたため21世紀に入ってから制服や制度の大幅変更を行った。
ここでは連邦軍と同盟軍双方の歴史を紹介する。

創成期

1824年に建国された中米アメリカ連邦共和国はわずか15年後の1835年に解体された。中米連邦軍は解体された諸国の軍隊となっていたが1845年の自由カリブ海連邦共和国の誕生により再び連邦軍は復活した。1846年、自由カリブ海連邦軍創設に深く関わり中米連邦軍司令官職を歴任したアレハンドロ・メヒア元帥が初代軍務大臣(後に国防大臣に改称)兼連邦軍司令長官に就任した。
軍の近代化を図るためメヒア将軍は軍幹部や将来を担う若い将校た800名を率いてフランス・アメリカーナ帝国・イギリス・ビザンツ帝国を歴訪し近代諸国の軍事を学んだ。帰国後、メヒア将軍は西欧諸国の軍隊を模範とした軍制改革を敢行した。創成期の連邦軍は陸軍・海軍・海兵隊の三軍のみで構成されていた。この時期の海軍と海兵隊の仲は良いが陸軍との関係は悪く作戦行動に支障をきたしたために参謀本部を設置しその下に陸軍部と海軍部を置いて陸海軍の連絡を取り合わせることで指揮系統の統一を図った。そのおかげで軍同士の対立は収まった。連邦軍の改革を断行したメヒア将軍は1852年3月にカリフォーニエン大公国訪問中に狂信的な左翼の若者に襲撃されその傷が元で亡くなった。

1850年代

メヒア元帥の死後の1852年7月に第2代軍務大臣に就任したホセ・カロカス元帥は軍務省の組織拡大を図り内部部局として兵務局・情報局・工務局・兵站部・衛生部・人事部を設置して組織の強化を図った。カロカス元帥の時代から連邦軍最高司令官は連邦大統領が兼任し軍政の最高責任者として現役武官か軍務大臣に就任するのが慣例となった。
近代化を推し進めていた連邦軍だが1856年5月に起きた第1次加哥(カリブ・コロンビア)戦争では6000の連邦軍に対し1500のコロンビア軍が大勝した。
敗戦の報せを受けたカロカスは自決したためにジョアン・ボルキナス上級大将が第3代軍務大臣に就任した。

近代軍隊時代

ボルキナス・ドクトリン

ボルキナスは軍務大臣に就任してすぐに加哥戦争を
調査させた。作戦案を調べあげ参加した将校たちから意見を聞き取り敗戦した経緯を徹底的に調査・分析した。その結果、指揮官同士のメンツの張合いや派閥主義など作戦行動とは関係ない私情によって戦闘が行われたことが分かった。ボルキナスはこれまであった陸軍学校と海軍学校を廃止して国防大学校・士官学校・幹部士官学校を開設して連邦軍人として相応しい教育を受けさせた。
カロカス時代の軍務省組織改革も引き継ぎ陸軍司令部・海軍司令部をそれぞれ陸軍省・海軍省と発展させた。陸海軍省の長たる大臣は上級大将を置きそれぞれが対等の組織であり理解を持たせるため月に1度の懇親会を開いたり連邦軍最高司令部を組織して陸海軍の協力関係を強化させた。
陸軍においては創成当初は6個師団のみだったが19個師団増設し25個師団編成となった。師団を補うために旅団を導入し歩兵科・騎兵科以外は旅団が編成された。陸軍はこれまで歩兵科・騎兵科・砲兵科・輜重科の5兵科しか無かったが新たに偵察科・憲兵科・工兵科・通信科・業務科・衛生科・猟兵科・装甲擲弾兵科の8科を設けた。ボルキナスは国境地区に要塞を築かせて必ず2個師団を駐留させた。部隊間では電報や電信だけでなく伝書鳩・伝書インコ・伝書犬・伝令を使わせいち早く情報を各兵科部隊に報せ兵科司令官は必ず連携をするよう軍規にも定めた。
要塞付近には鉄道・道路・水路などの交通網を敷かせ電線・通信ケーブルも敷設して兵站ルートと通信面を補った。これらの計画は後に「ボルキナス・ドクトリン」と呼ばれカリブ統一運動や第1次カリブ海戦争に勝利する要因となった。

海軍の近代化

第1次カリブ海戦争

連合軍はイギリスを盟主としていたが上手く連携が取れず、植民地出身者を中心とした部隊だっためサポータジュや脱走が相次ぎ部隊行動に支障をきたした。そのため本土から主力を派遣したが土地に不慣れだっために連邦軍のゲリラ戦や奇襲戦の前に敗北を重ねキューバ.スペイン側の司令官が相次いで戦死すると連合軍は戦意を喪失して9月には連合軍による撤退宣言がなされ、戦争は連邦の勝利に終わった。10月にはハイチで講和条約が結ばれ連邦にケイマン諸島と小アンティル諸島が割譲された。

20世紀初頭

トルヒーヨ時代の連邦軍

1940年代に独裁体制を築いたトルヒーヨは連邦軍を私物化した。連邦軍の主要ポストはトルヒーヨ一族と側近で固め中立派や対立派の将校を前線に送り戦死させたり事故に装い暗殺させた。
装備品の面でもトルヒーヨは私物化を図り当時連邦軍の主要な装備品は米英仏の銃器が主流だったが自分の趣味を装備品に反映させ独伊露の装備品を導入した。そのため装備がバラバラで補給に困難をきたした。トルヒーヨが導入した装備品は連邦軍トルヒーヨ麾下部隊かピサロ連隊で使われており、
トルヒーヨ軍以外の歩兵装備品
拳銃
コルトM1903
コルトM1911A1
ブローニングM1900
小銃
スプリングフィールドM1892
ウィンチェスターM1895
スプリングフィールドM1903
エンフィールドL8
メトフィールド
ベルティエ
M1カービン
|M1ガーランド
MAS36
短機関銃
M1トンプソン
MP18
ステン
機関銃
マキシム機関銃
ルイス機関銃
ブレン軽機関銃
オチキスM1924機関銃
BAR
トルヒーヨ軍の歩兵装備品
拳銃
コルトM1911A1
ワルサーP38
ワルサーPPK
ワルサーPK
ブローニングM1910
ベレッタM1915
ベレッタM1934
小銃
M1ガーランド
M1カービン
Gew98
Kar98k
Gew43
モシン・ナガン
SVT44
短機関銃
M1トンプソン
MP35
MP40
MP41
ステン
PPsh41
軽機関銃
マキシム機関銃
ルイス機関銃
オチキスM1924機関銃
BAR
FG42
MG42
MG3
DP28
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