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本項目では自由カリブ海同盟及びその前進であるカリブ海連邦の歴史について記述する。

概要

自由カリブ海同盟(FCA)政府公式見解では「自由カリブ海同盟は中央アメリカ連邦共和国とカリブ海連邦共和国の歴史.文化.思想.領域を継承する」としている。また加盟国の歴史も公式の歴史として継承しており同盟全体の歴史は「同盟史」、地方ごとの歴史は「地方史」と区分している。

先史時代から植民地化時代

中南米大陸とカリブ海地域に位置する自由カリブ海同盟は、大陸と諸島部で歴史や文明が大きく異なっている。中米地域ではマヤ文明の影響を強く受けていたが、南米地域ではチャブチャ系文明、諸島部では土着の先住民や南米より渡来した民族による文明が築かれていた。

1800年代

カリブ海連邦共和国建国

1824年、中米の旧スペイン植民地化諸国はアメリカ合衆国をモデルとした中央アメリカ連邦共和国が誕生した。しかし、建国当初から国内の自由主義者と保守主義者の間で内戦となり連邦は1839年にわずか15年で崩壊した。
連邦崩壊後はエルサルバドル.グアテマラ.ロスアルトスの3カ国を除く連邦構成国3カ国(ニカラグア.ホンジュラス.コスタリカ)は1845年に新しく自由カリブ海連邦共和国を建国した。首都をニカラグアのプエルト・カベサスに定めた。
カリブ連邦は欧米諸国にならった近代化政策を行い中米諸国に先んじて鉄道敷設と交通網の整備をおこなった。カリブ海の利権を巡りコロンビアとの関係が悪化し1858年、第1次加哥(カリブ・コロンビア)戦争で大敗を喫し賠償金を払ったため不況となった。
連邦軍の立て直しを図った連邦政府は帝国主義政策を推し進め1868年にベリーズ、1870年にはパナマを構成国に加え領土を急速に拡大させた。
1880年、アントニオ・メナンデス大統領が掲げた「自由カリブ連邦による全カリブの統一」をスローガンにカリブ統一運動を開始した。メナンデスは増強した海軍と商人を用いてキューバを除く大アンティル諸島とイスパニョーラ島に進出し各地をカリブ連邦政府の影響下において1889年には大アンティル諸島とイスパニョーラ島を連邦構成国に加えた。
連邦の拡大政策に対してアメリカーナ.グアダラハラ.イギリス.スペイン.キューバ.フランス.オランダの7カ国は危機感を覚え連合軍を組織し1895年には第1次カリブ海戦争が勃発したがカリブ海連邦の大勝利に終わった。

19世紀末

戦争終結後国内は好景気に湧いた。工場建設や各地でのプランテーションが活気づいたのもあり、中南米の1国が欧米の大国に大勝利したこともあり海外の投機家による投資でカリブ海連邦企業の株の価値は上がり国民の所得が増えた。
1898年、カリブ連邦の未曾有の好景気が気に食わないイギリスは報復措置としてカリブ海製品の砂糖.トウモロコシ.綿製品などの輸出品に禁輸措置を設けカリブ海を航行するカリブ連邦船籍の商船を不当に取り締まるなどして欧米への輸出を防いだことにより投機家や欧米銀行の投資が無くなったことで深刻な経済不況が発生した。更に企業は大規模なリストラと給与減額しプランテーションも西欧諸国経営者が引き上げと同時にプランテーションを破壊したので作物が出来なくなった。この事態を受け都市部の工場では一斉ストライキが起きた。地方でも小作民と地主の間で労働争議が行われた。政府と企業も対策を打ち出したが効果が出ず次第に暴動と化した。経営者と地主も傭兵.民兵.ギャングを雇ってデモをする労働者と小作人を殺害させた。政府と軍部の介入を避けるため官僚.警察.軍人に賄賂を渡して黙らせたために一気に国民の不満が爆発寸前だった。
1899年、カベサス市内で軍改革派と改革派を支持する武装市民がクーデターを起こし大統領のベニサスを投獄しベニサス大統領と閣僚全員を処刑した。政府を掌握したクーデター軍司令官のペトロ・サンタナ少将が大統領に就任した。サンタナ大統領は国民の声を聞いて不正を働く大地主・経営者・商人を逮捕してプランテーションを国営化して小作人に土地を分け与えた。農村には技術者や農地指導者を置いて農民を教育して破綻した農村の立て直しを成功させた。イギリスとは交渉と武力で不当な介入をやめさせた。

1900年代前半

サンディーノ政権

1920年、クーデターによって第33代大統領に就任したホセ・サンディーノ将軍だった。不正なプランテーションや企業を閉鎖や営業禁止にするとそれらを国営化し国内外から有識者や実績のある経営者を招いて改革を図った。農民・労働者政策が人気だったため農民労働階級から圧倒的な支持があった。しかし、国内の地主や経営者からは既得権益を犯されたためにサンディーノに対して恨みを抱きマフィア撲滅政策で没落したマフィアと結託してサンディーノ暗殺を企てたが失敗に終わった。1926年にアメリカーナとカリブ連邦の合資企業「カリビアン・ユナイデットフルーツ」の利益配当をこれまでのアメリカーナ7、カリブ3から五分五分にする交渉を行いパナマ運河の権益もサンディーノが手に入れたこととサンディーノのアメリカーナ嫌いを理由にアメリカーナ帝国政府は地元の反対勢力と結託し1928年、マナグアで行われるアメリカーナとの会談の席でサンディーノは暗殺された。

混迷期

サンディーノ死後に大統領に就任した

トルヒーヨ政権

1939年、第得たアウグスト・トルヒーヨ元帥は連邦軍を退役し政界に進出した。与党の保守派を取り込み軍部の影響力を用いて議会を侵食して非常宣言を用いて大統領に就任した。大統領権限を行使して憲法改正を断行し閣僚を自分の一族側近で固め議会の8割を自らを支持する議員にするなどの独裁体制を確立させた。
トルヒーヨは反共撲滅を掲げ1941年には野党全てを解散し、42年には議会を無期限閉会して自身を批判した新聞社.放送局を制圧し国営化した。
内政では公用語を英語とスペイン語のみとし先住民の言語と文字の使用を全面的に禁止にする法律を施行、先住民言語と文字を使用したものは死刑とした。全ての教会に対し十字架と聖画を撤去して自分の像と肖像画をイコンと定め必ず礼拝するよう命令し更には全家庭に自らの肖像画を配布し1日3回礼拝する法令を制定し無視した国民は処刑とした。自らに反対的な財閥は罪をでっち上げて全財産を奪い処刑した。国内各地で共産主義撲滅を大義名分とした独立部隊「ピサロ連隊」を組織すると反体制派国民と先住民の虐殺を指令し先住民が多く住む大陸山岳部や工業地帯.主要都市に投入され無実の罪で最低で3万人、最高で150万人が殺害された。更に自らを支持しない軍高官.政府高官.高級官僚とその一族を粛清をしたことによりトルヒーヨ政権は完全に支持を失った。

第1次内戦

1945年1月15日、トルヒーヨ政権の暴虐行為を無視できないものとする軍穏健派と大多数の国民は救国軍事戦線を組織して政権軍と戦った。トルヒーヨ軍は徹底抗戦し市街地に対して砲撃や焦土戦をし自国民に対しても徹底的な略奪を行い多くの犠牲者を生じさせた。
これらの行為から見て分かる通りトルヒーヨ軍はピサロ連隊を始めとするトルヒーヨ支持者のみで構成された連邦軍部隊しか正規軍は参加しておらずそれ以外は民兵組織.外国人傭兵.武装マフィアなどの非正規軍事組織であり彼らには統率もなければ練度も低く各地で略奪・暴行・虐殺が相次いだ。
アルベルト・グスマン陸軍大将が巻き返しを図り各地でトルヒーヨ軍を打ち破り革命軍による勝利宣言を発した。1945年11月3日のハイチ攻防戦で救国軍事戦線は完全な勝利を収めた。1945年2月11日にトルヒーヨを含む旧政権の主要人物全員が処刑された。グスマンは救国軍事戦線を解散して国民総選挙を行った。結果はグスマンの圧倒的勝利で1946年第44代大統領として戦後復興に尽力した。トルヒーヨ政権時代の虐殺と内戦で300万人が犠牲になったとされる。

1950年代〜70年代

アリオス政権時代

1954年、グスマン大統領が脳卒中で倒れそのまま死去した。グスマンの側近でコスタリカ出身のガブリエル・アリオスが第45代大統領となった。アリオスはトルヒーヨ時代と内戦によって家族や友人を失い国民から軍隊不保持の声が高まっていたために連邦軍を解散して新たに連邦防衛隊と国家保安隊を発足させた。国内では不安定な経済を立て直すため大規模な産業振興政策を打ち出した。大陸部では農畜産業振興政策を行い国民の食品自給率が大幅に上がり輸出品目が増えたことで多くの外貨を獲得した。経済面でも工業化の成功により国内は大きく発展した。国営環カリブ高速鉄道を敷設し輸送力が上りライフラインも整えられ、諸島部では国営水上タクシー会社と国営水運企業による水上輸送とヘリ.小型航空機を中心とした国営航空会社「センチネル・カリブ航空」による空路確保を行い貧困諸島部市民に対しては格安で利用させ島どうしの輸送を便利にした。
エネルギー政策ではコスタリカに地熱を利用した火力発電所を7ヶ所建設し、1970年のニカラグア加盟と共にダム4か所と水力発電所を開き自然エネルギーによる発電政策が成功した。1975年にはベネズエラ.パナマ.ベリーズ.ジャマイカに原子力発電所を建設し国内の電力供給を安定化にした。全国の教育機関を拡充に務め初等教育無償化によって識字率が大幅に上がり文盲の人にも無償支援で識字率を上げた。1970年代には左派ゲリラや反体制派武装勢力が勢いを増し主要都市でゲリラによる無差別テロが起きると防衛隊と保安隊では封じ込めが出来ず国民も軍隊の再保持を望んだため1974年、アリオス大統領は防衛隊と保安隊を統合して連邦軍に昇格させた。アリオスは新連邦軍実働部隊の総指揮官である連邦軍全軍幕僚総監にウノ.チャモス大将を当てた。
チャモスとチャモス率いる連邦軍特殊作戦群はゲリラ及び反体制派の討伐で国民の圧倒的人気と支持を得た。カリブ海連邦の建て直したアリオス大統領は1977年9月に健康上の理由で大統領を辞任した。辞任から2ヶ月後、アリオス大統領は72歳で亡くなった。

チャバス政権時代

1977年10月に行われた臨時大統領選を制したのはアリオス政権で国務大臣や政府首相を歴任したシモン・オリベイラだった。オリベイラは前任のアリオスと違い事務能力に長けているが実務が出来ない人物だった。1978年にブラジル連邦政府がカリブ連邦に対してパナマとグレナダ割譲をするよう圧力をかけられると一旦は拒否したがアメリカ政府が遺憾の意を表し南米合衆国海軍にベリーズ攻撃を命じた。南米合衆国海軍第3艦隊はベリーズのコロザル海軍基地に対して艦砲射撃と空爆を行い基地を破壊する事件が起きた。南米合衆国政府の強硬姿勢を前にオリベイラは低姿勢で対応しアメリカ側の条件を飲み軍縮にも応じる構えを見せた。オリベイラの態度に対し業を煮やしたチャモス元帥はクーデターを起こしてオリベイラを国外追放した。チャモスは実権を握り大統領に就任すると強行的な態度でアメリカの要求を拒否した。南米合衆国政府は情報機関にチャモス暗殺を指令した。(カラカス事件)
チャモスは南米合衆国による暗殺行為を全世界に喧伝した。南米合衆国に危機感を覚えたチャモスは1979年に科学者と技術者を集めてベネズエラで核実験をし独自の戦術核兵器を製造して核保有国となった。

1980年代

東カリブ戦争

1985年、当時は独立していたグレナダに対して南米合衆国は侵攻を開始(グレナダ侵攻)、さらに1986年にはパナマ運河確保をするために米軍によるパナマ侵攻が起こり連邦政府は南米合衆国に対して強い嫌悪感と敵愾心を持ち国内でも南米合衆国に対する主戦論が高まった。圧倒的な国力を誇る南米合衆国との戦争には同じ反米カリブ海国家 キューバの力が必要だとしてキューバに接近した。
1987年5月20日、キューバ政府は「帝国主義の手からカリブ海地域の解放宣言」をするとアメリカに宣戦布告、カリブ海連邦と軍事同盟を結んだ。キューバからの要請を受けたカリブ海連邦はキューバと共に「カリブ海独立解放連合軍(略称:CILUF)」を組織した。
カリブ海連邦及びキューバの行為に対し南米合衆国は8個艦隊と12個師団の派遣を決定し、「フリー・オーシャン(自由なる海洋)作戦」を発動した。
開戦当初は物量を誇る南米合衆国軍が有利であり87年9月にはバハマを11月には大アンティル諸島とケイマン諸島を失い12月にはニカラグア.ベリーズを失うなどの手痛い打撃を受けたが翌88年1月のセントルシア沖海戦で勝利すると徐々に勢力を盛り返し3月にはニカラグア.ベリーズ.ケイマン諸島を奪還した。
88年5月の第2次バハマ諸島沖海戦でNATO艦隊を壊滅に追い込みプエルトリコ上陸戦の成功によってNATO軍の補給線を絶つことに成功した。
カリブ海連邦は南米政府に対し「これ以上の戦争継続は両国にとって不利益にしかならない、もし戦争継続するなら核攻撃も辞さない」との声明を発表した。この声明を受け国連が介入し、1988年8月10日、国連仲介によるCILUFとNATO軍参戦国との講和がコスタリカの都市「リモン」で行われた「リモン講和会議」によって東カリブ戦争は終結した。
この講和会議で、グレナダ及びパナマの完全返還、プエルトリコとケイマン諸島が正式に領土に加わった。

90年代

9.17事変

1988年8月25日、リモン講和会議によってCILUFは解散しキューバ.プエルトリコ.ケイマン諸島を加えた新しい連邦国家構想が持ち上がった。しかし、社会主義国家のキューバ参入は他の加盟国が「自国が社会主義に犯されるのでは?」との疑念と不信感を抱かせた。カリブ海連邦政府は疑念払拭のために先の戦争でカリブ海連邦に亡命した元キューバ特務機関のエージェントを使いキューバの最高指導者兄弟の暗殺を実行、キューバ革命軍民主派を扇動しクーデターを起こさせキューバ社会主義政権の打倒に成功した(9.17事件)
この事態にカリブ海連邦は軍を派遣し介入しキューバを同盟に引き入れた。

自由カリブ海同盟建国

カリブ海連邦政府は1988年10月1日「新世紀に向けた新連邦国家樹立」を目指した政権移行を発表し新体制を問う国民投票を行った。投票の結果、新体制賛成が85%の得票率で承認され新体制の元首を決める国民選挙が実施された。1988年11月1日、国務大臣兼国防大臣の「アナスタシオ・サモサ・デルバイレ」が圧勝した。デルバイレは大統領就任演説で「90年に我が国は 生まれ変わる」と国民に発表した。
1990年1月1日、サモサを国家元首とする「自由カリブ海同盟(FCA)」が誕生した。

暗黒時代(第2次内戦)

FCA初代大統領となったサモサはニカラグアに建設した新都市「ファルシオン」を同盟首都に定めた。全権限をファルシオンに集中させ諸島部の会議もファルシオンで行わせ政策もファルシオン市民の意見を最優先で採択した。地方からの請願は無視しファルシオン優先で行われた。このファルシオン一極集中政策が後の内戦に繋がることになる。
サモサ政権は国連再加盟を成功させると産業振興を行い既に発展していたIT・半導体・電子機器開発をさらに成長させることに成功した。
資源確保のためカリブ海全域の海底資源を調査させ資源採掘地域の大規模開発により国民の所得を倍増させることに成功させた。これらの政策により国民の支持を得たが、カリブ海の天然資源により諸島部の所得が増えると大陸部の不満が高まった。
ニカラグア出身のサモサは中央政府の力を強めるため数々の大陸部加盟国優位政策を行った。
諸島部加盟国から産出される全ての天然資源の搾取、諸島部地域のみに莫大な課税、大アンティル諸島周辺の海上封鎖などの政策を実行した。
これらの政策に諸島部住民は抗議活動をしたが同盟政府は大陸出身者を中心とした鎮圧部隊を投入、徹底的な弾圧をして抗議活動参加者をキューバのグアンタナモ強制収容所やニカラグアのオメテーベ島強制収容所に収監し拷問などの数々の人権蹂躙行為を行った。反対派住民が多数居住していると思われる地域に艦砲射撃と無差別空爆を行い自国民の大量虐殺を行った。これらの行為に諸島部住民の反発が頂点に達した。諸島部出身議員は最高代表者会議で諸島部国民の声を伝えたが諸島部議員が全員国家反逆罪の容疑のもと拘束され即日公開処刑が行われた。同盟政府の手を逃れた諸島部出身の将兵と政府高官は「救国革命戦線」を立ち上げて中央政府に反旗を翻した。独立からわずか4年後、1996月4月14日 大陸部と諸島部による内戦(4月内戦)が勃発。
東カリブ戦争で活躍し国民の人気が高かったジョナサン・ランボー同盟軍大将は「救国軍事革命機構」を組織して敢然と中央政府軍に立ち向かった。
ランボー将軍の活躍により1996年5月20日、革命軍はサモサ軍が篭もるファルシオン侵攻を開始し、即日政府軍は降伏した。サモサ一族とサモサの側近は国外亡命を図ったが革命軍により全員逮捕された。
ランボー将軍は国内をまとめ臨時政府を発足し「半年後までには総選挙を行い民主化する」と国民に発表した。サモサ時代に成立した悪法は全て廃止され、不当に収容された国民を全員釈放した。
1996年6月19日、約束を前倒しにして臨時政府の解散と新政権の是非を問う全国総選挙を行うとランボーが率いる政党「カリブ救国国民戦線(現:カリブ救国国民会議)」が98%の得票率を得て第2代大統領に就任した。

カリブの奇跡〜ランボー政権時代

1996年7月15日 ランボー政権はサモサ政権時に制定された憲法を廃案にして旧憲法に変わる新憲法「自由カリブ海同盟憲章」を公布した。
アリオス時代に行われた国土発展政策をさらに伸ばしコスタリカで行われていた医療品開発を国内に普及させベネズエラの鉱業を国営化してその利益を国民に分配した。格差の是正を無くすべくユーゴスラビアの自主管理社会主義を取り入れ積極的に社会の不満を改善させた。
首都をグランカスティージョからのイスパニョーラ島に建設した新都市「グラン・カリビアン」に移転した。諸島部の意見と大陸部の意見を双方取り入れ民族的な風潮があれば徹底的に抑えたが、政権批判は全面的に許した。観光資源を活かして国家主導の観光振興政策により世界中から多数の観光客が来たことで外貨獲得にも成功し最貧国地域から一気に富裕国となった。建国以前から麻薬カルテルによる麻薬汚染が深刻化しておりランボーは政府,軍部,警察を総動員した「麻薬撲滅作戦」を展開、10年の長きに渡る活動によって国内全ての麻薬カルテル,ギャング,大規模犯罪組織,反政府ゲリラの撲滅に成功した。
これらランボーの政策は 「カリブの奇跡」と呼ばれ世界的に称えられた。

2000年代

メイトリクス政権時代

2012年2月14日 16年間長期政権を敷いていたランボーは大統領職を辞した。大統領退任と共に全国統一選挙が行われ政権与党のカリブ救国国民会議(CRPC)が圧勝した。CRPC総裁にしてランボーの後継者 「ジョアン・メイトリクス」が第3代大統領に就任した。メイトリクス政権は同盟軍をPKO活動に参加させ評判の悪かった同盟軍の印象を高めた。積極的な外交姿勢を示しアメリカとの国交を回復させたことで国際的立場を高めた。内政では自ら一般市民に扮して最貧地域に1ヶ月間赴き市民の労苦を知ると貧困層の医療費無料化,国民皆保険制度の実施,中等教育の教育無償化,子供の労働全面禁止などの貧困層環境改善政策の実行により国連からも賞賛され前任のランボーと共にノーベル平和賞を受賞した。
2015年3月14日 カリブ海全土を震度8の地震が襲い同盟全土が被災した。メイトリクス政権の迅速な対応によって想定されていた被害を下回ったが20万人が犠牲となり3000万人が被災した。
政府の積極的復旧政策と国連の支援活動により復旧・復興が予想より早く進んだ。メイトリクス自ら軍と消防を率いて被災地に赴き被災者の救助活動に取り組んだ。しかし、メイトリクスは2015年3月30日 コスタリカの山中の集落での被災者の救助活動を行っていたがその最中に集落を襲った土砂災害でメイトリクスを含む政府軍部関係者,同盟軍将兵200名程がが行方不明となり1週間後にメイトリクスの遺体が発見された。同盟政府は大きな衝撃を受け指導者を失った政府は混乱を窮めたがメイトリクスが残した非常事態マニュアルにより混乱を回避し、大統領代行だったアラン・ダッチ副大総統が引き続き復興政策を引き継いだ。4月5日に議会より正式に第4代大総統に任命されたダッチは挙国一致内閣を組閣して全力の対応に当たった。震災発生から2年後の2017年3月14日に「完全復興完了宣言」を発した。
この震災は「カリブ海大震災」と命名された。

コロンビア侵攻

2020年6月12日 ダッチ大統領は外遊中のコロンビアの都市「メデジン」でコロンビア連邦軍と現地武装勢力「コロンビア人民解放軍(CPLF)」の戦闘に巻き込まれた。ダッチ大総統は自ら銃を手に取り大総統警備隊と警護にあたっていたコロンビア軍を率いてCPLFを撃退した。しかし、戦闘が激化したためにコロンビア国防省はメデジン市街地への爆撃をコロンビア空軍に指令した。軍の退避命令が届いて居ないためにダッチは空爆に巻き込まれ死亡した。この事件を受けハレ・エメリッヒ副大統領は同盟憲章に基づき第5代大総統となった。エメリッヒ大統領はコロンビア政府に対して即座に厳重抗議・経済制裁を行った。6月17日にはコロンビアに対して武力制裁「抑えきれない怒り作戦(operación Ira incontrolable)」を決行し15万人の同盟軍をコロンビアに派遣した。同盟軍の猛攻によりコロンビア軍とCPLFは壊滅、抵抗出来なくなったコロンビア政府はFCAの無条件降伏を受け入れ6月28日に全面降伏した。6月30日 FCAはホンジュラスを完全併合した。7月9日 コロンビアの首都「ボゴダ」で行われた「FCA新加盟国誕生式典」記念式典の演説中、CPLF残党のテロによってエメリッヒ大統領を含む政府要人が暗殺された。
FCA政府はCPLF掃討命令を発令し現在まで戦闘が続いている。

現在のFCA

エメリッヒ大統領の暗殺によってコロンビアを含めた同盟全土で全国総選挙が行われた。コロンビアのみ軍と警察による監視のもとで投票が行われた。
選挙期間中はエンリケス同盟全国代表会議議長が臨時大総統として挙国一致内閣を組閣し政権運行を担った。
2020年9月1日 第2代大統領ジョナサン・ランボーの養子でCRPC最高総裁のマリア・カデンツァヴァイ=ド・イスメラルダがわずか24歳で第6代大統領に任命された。マリア新政権はエンリケスのみを留任とし歴代政権がやり残した政策の実行,コロンビア問題.女性の地位向上.新エネルギー政策.治安問題に立ち向かう姿勢が国民から高い支持を得ている。

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