最終更新: burandenburug1945 2021年07月26日(月) 16:56:38履歴
ロヘニアの歴史 (ロヘニアのれきし) では、ロヘニアの歴史について述べる
1517年にルターとかいう修道士が腐敗した教会に対して批判を行ったが、すぐに捕まり消された。しかし、これに反対する多くの新教徒が革命を起こし、これにより宗教革命が起こった。革命自体は数年後に収束し新教徒も大部分が国外へ逃れたが、内乱で荒れた神聖ローマ帝国は急速に消滅に向かっていった。
先史時代のロイヘンの歴史はよく分かっていない。青銅器時代に起こったインド・ヨーロッパ語族に属するゲルマン系の民族の文明が最初のロイヘン系文明とされている。彼らの文明はスカンジナビア南部やバルト海沿岸、ロイヘン北部などで栄えたが、4世紀頃の南への移動が始まるとローマ帝国?との対立が深まった。
962年、ローマ教皇に帝冠を与えられた東フランク王国の王オットーは神聖ローマ帝国?の皇帝に即位した。ただし、「神聖ローマ帝国」という記述が初めて登場するのは13世紀のことで、それまでは決まった名称が存在せずに「帝国」と呼ばれていた。
プロイセルン?は神聖ローマ帝国の東側にあった小国だったが、17世紀以降軍拡を続けていき、帝国内随一の精強な陸軍を持つようになった。ザールフルトといった資源地帯を保有していたプロイセルンは産業革命は進展し、プロイセルン国内の生活水準は格段に上がった。
神聖ローマ帝国が消滅した後、各領邦は独立国家と化した。プロイセルン王国といった一部の国は産業革命で発達したものの、南部のバルイエン王国?などの南部の国は工業が発展せず、生活水準は18世紀と変わらないものであった。一部ではまだカトリックの影響から魔女狩りをしている地域も存在しているほどで、ロイヘンは全体的に見るとヨーロッパの後進国であった。
19世紀中盤からロイヘンの各領邦の国民の間に民族意識が芽生え始め、彼らは統一に向けてロイヘン系諸邦の連合体ロイヘン連邦?を形成した。しかし、ロイヘン連邦は未だ統一国家とは言いがたく、ロイヘン国民は統一国家の成立を強く望んだ。統一するにあたり、プロイセルンは「全てのロイヘン民族の地域を統合した国家の形成」を唱えたが、南部のオーストリアやバルイエンなどの一部の国は上記のような統一に反対した。理由としては、これらの国はプロイセルンと関係が悪く、プロイセルン主導のロイヘン統一に賛同したくなかったからである。何としてもロイヘン諸国民の統一国家を成立させたいプロイセルンとプロイセルンと関係の悪いオーストリアは対立し、ロイヘン連邦は南部のオーストリア派と北部のプロイセルン派の2大派閥に分裂した。
1891年、統一したばかりのロイヘン帝国は早速隣国ポーランドに侵攻。数ヵ月後には同国を併合し、ロイヘン帝国の滅亡までポーランドはロイヘン人の支配を受ける事になる。ロイヘン帝国の拡張政策は留まることを知らず、アフリカにも小規模な植民地を形成。その他ヨーロッパでも西に向けて進出して行った為、ロイヘン帝国は諸外国との対立を深めた。
第二次世界大戦末期、ロイヘン帝国軍の残党は北部にある都市フレンスホーフ?に逃れ、臨時政府を組織。1945年、フレンスホーフ臨時政府は連合国と停戦協定を結び、これによりヨーロッパの第二次世界大戦は終結した。
1945年のうちにフレンスホーフ臨時政府は解体され、翌年の1946年にロヘニア共和国が成立した。ロヘニア共和国の成立によりロイヘンに初の民主主義国家が誕生。今まで認められなかった国民の基本的人権などが認められ、国民の生活水準は格段に上がった。しかし、敗戦国であるためロイヘンは多くの領土を喪失。オーストリアやベーメンはロイヘンを離反。また、ポーランドも独立を果たした (しかしまた直ぐに滅亡する)。しかしバルイエンといったロイヘン南部の諸地域は独立を認められず、引き続きロヘニア共和国に属することになった。これらの国では現在も独立の欲求が高まっている。戦後のロヘニア共和国は連合国軍の爆撃によって多くの都市が破壊され、大打撃を受けていた。しかし、急速な復興を遂げ、直ぐに国際社会にも復帰する事ができた。
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