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概要

マルキアヌス(Marcianus Μαρκιανός, 396年 - 457年1月27日)は、東ローマ帝国テオドシウス王朝の皇帝(在位:450年 - 457年)。

生涯

兵士の子としてトラキアに生まれる。親と同じく兵士となり、フィリプボリスに駐屯する部隊で勤務した。
421年、対ペルシャ戦線に部隊が回されるとマルキアヌスもこれに参加したが、途中リュキアで病となったため、休養の後コンスタンティノープルに帰還し、その後はゲルマン人の将軍アスパル親子の下で勤務した。この頃には既に将校となっていたと思われる。
431年、オリエント軍司令のアスパルに従い、カルタゴ救援のためヴァンダル族との戦争に参加する。翌年カルタゴ付近で行われた戦闘でローマ軍は敗れ、マルキアヌスはヴァンダル族の捕虜となるが、まもなく解放された。
450年、東ローマ皇帝テオドシウス2世が死去した後、東ローマ帝国の有力者であったアスパルは、自身の忠実な部下であったマルキアヌスをテオドシウス2世の姉アエリア・プルケリア(399年 - 453年)と結婚させ、皇帝を名乗らせた。しかしマルキアヌスは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世に相談せずに皇帝を名乗ったため、ウァレンティニアヌス3世は452年まで彼に正式な皇帝としての承認を与えなかった。
一方でマルキアヌスも、西の宮廷が彼を認めなかったことへの報復としてか、ウァレンティニアヌス3世の没後に就任したペトロニウス・マクシムスやアウィトゥスに正式な皇帝としての承認を与えず、さらには西ローマ帝国と交渉中であったフン族の王アッティラを激怒させて交渉を失敗させたり、455年にはゲイセリックが率いるヴァンダル族にローマでの略奪行為を黙認するなどしたため、ローマ帝国の東西宮廷による対立は一層深刻となった。
マルキアヌスは、フン族のアッティラへテオドシウス2世が約束していた献金の打ち切りや、コンスルやプラエトルの主催する見世物への費用を減らすなど、財政の健全化を果たした。人口減少地を蛮族に与えることで東ゴート族やルギ族などと同盟関係となり、バルカン方面の帝国国境の安全を確保することに成功している。451年にマルキアヌスが召集したカルケドン公会議でエフェソスでの決定を批判して、ニカイア信条の三位一体説を支持し、ローマ教皇との友好関係に努めた。
457年、1万ポンドの蓄えを遺し、在位7年にして恐らく壊死で死去した。
マルキアヌスの娘(マルキアヌスとその前妻との間に生まれた)アエリア・マルキア・エウフェミアは、西ローマ皇帝アンティミウスと結婚している。
マルキアヌスは、レオ1世よりも先に、皇帝就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された初めてのローマ皇帝であるとされることもある。

後継

レオ朝?レオ1世

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