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古代

 グレートブリテン島には紀元前9世紀ころから紀元前5世紀ころにかけケルト系民族が進出してきた。これによってグレートブリテン島における鉄器時代が始まり、ブリテン島各地にケルト系の部族国家が成立した。

紀元前55年ローマのユリウス・カエサルがグレートブリテン島に侵入し、西暦43年ローマ皇帝クラウディウスが侵攻しようとしたがカンタベリの戦いで大敗北を喫した。

中世

ゲルマン人のアングロ・サクソン諸部族がブリタニアに侵入し、グレート・ブリテン島南東部を征服した。この結果、この地域には後世アングロサクソン七王国と呼ばれるようになる小国家群が成立した。
 その内の1つウェセックス王国のキリエラ王(ケルト人豪族の血を継ぐ)が勢力を拡大。その嫡子だったアルフレッド大王が七王国を統一。その後ウェールズやスコットランド、そしてデーン人のスカンジナビア王国を統一。これが第二次ゲルマン人大移動をさらに活発化させる。
 その後、プランタジネット家とノルマンディー公国の血を継ぐウィリアム一世を政略結婚により迎え入れ、一時的にフランスの半分をも勢力圏に加えた。
 これを遠因とする百年戦争の過程においてブリテンは現在のフランスの領土を喪失し、基本的に北海沿岸で完結する王国に再編成された。対フランスという視点から見ればこの一連の出来事はブリテンという大きなまとまりでの自意識を持つようになった。これは後にブリテンの国民的アイデンティティーを成立させる一因になった。

近世

大陸で15世紀初頭に始まった宗教改革運動はブリテン島にも伝播し大きな影響を与えた。
 ブリテンの宗教改革はヘンリー8世の離婚問題という全く非宗教的な理由で始まったが、これによって成立したイングランド国教会はイングランドでの王権の強化を図る一助になった。その後カトリックのリバイバルが試みられるもののエリザベス1世の統治に及んで国教会の優位は確定的になった。

 1536年にヘンリー8世はアイルランドへの再侵入を試みた。アイルランドはイングランド王位僭称者ランバート・シムネルを担いで反抗したが、王位僭称者を担いだ事はヘンリーに相当の危機感を持たせアイルランドの植民地化を決意させるに至った。1541年ヘンリーは在地貴族の支持を得られないまま、従来の「アイルランド卿」に代えて「アイルランド王」を自称した。この後もアイルランドへの出兵は断続的に継続されジェームズ1世の統治下でアイルランド全島の支配が確立した。

前述の通り、アイルランドでは宗教改革でもカトリックを守り通したため、プロテスタントに切り替わったイングランドとの間で宗教的な差異性が存在していた。イングランドは支配層であるイングランド人の優位性を確定させるためにカトリック刑罰法(英語版)を規定しカトリックの元支配層の失落とカトリックに対する差別が画策されることになった。
 女王エリザベスが独身のまま死去すると、上記の婚姻関係からスコットランド王ジェームズ6世が王位継承者に指名された。これによってスコットランド、イングランド両国は同君連合に発展した。イングランド王ジェームズ1世とその息子チャールズ1世は、イングランド、とりわけ王権を伸張する国教会のシステムを気に入りスコットランドにも持ち込もうとした。これによってスコットランドでは主教戦争が起きるがチャールズはこの戦費を賄う財源を求めて議会を開催した。しかし王の要求は受け入れられず国王と議会が軍事的に対立することになった。
 しかし、12世紀のジョン王の時代に確立した「マグナ=カルタ」の提示と国内からの総スカンによりチャールズは渋々政治的権力を議会に委任。しかしクロムウェルが彼を処刑。しかし、クロムウェルが独裁を始めた事により議会の一部が離反しチャールズの娘、メアリ2世の夫でオランダの王子ウィリアム3世(ピューリタン派)がクロムウェルを追放。そして彼は議会と「権利の章典」を結ぶ。そしてこの時に議会と内閣が誕生。そして、ドイツのハノーヴァ選帝候からの要請で当時幼かったジョージ1世を養子に出す。
 二人の死後、内閣や議会の汚職や王子が絶対王政復活へ動き出す等の動向を見せた為頭の良いアン女王が王位に付くとアイルランドを完全併合し、遠征に出た王子を処刑、そして内閣によるカトリック弾圧を行う。
 そんな中アン女王が死去した為、ハノーヴァ選帝候のジョージ一世が王に即位。しかし、ジョージ1世はあくまでもドイツの領邦国家のひとつであるハノーファー(ハノーヴァー)の君主であり、ドイツもしくは大陸ヨーロッパの政治には積極的に加担した反面、イギリスの政治に対してはあまり興味を持たなかった。ジョージ1世は即位時、既に50歳を過ぎていた上に、当時のヨーロッパにおける国際語はフランス語であったので、英語の理解には限界があった。次代のジョージ2世もプリンス・オブ・ウェールズ叙任時に30歳を過ぎており、既にハノーファーの軍事や政務を担っていたのでその政治姿勢には大差がなかった。加えてこの2代の王は、即位後もしばしばドイツに滞在し、イギリスを留守にすることが多かった。このため、イギリスの政治は王の手から離れ、議会勢力の大小に反映された内閣の手に委ねられることになった。

当時の第一大蔵卿であったホイッグ党のリーダー・ロバート・ウォルポールは、この2代の王の下で、事実上の首相として21年間政権の座にあり、庶民院の支持を失ったことを理由に辞任した。これを機に、内閣が議会に対して責任を持つ議院内閣制の基礎が築かれた。また、このウォルポールがイギリスにおける実質的な初代首相とされることになった。

ジョージ2世の孫で後継者であるジョージ3世が、ハノーヴァー朝で最初のイギリス生まれの王になった。ジョージ3世はしばしば議会への干渉を試み、この政治姿勢は程度の差はあるものの、息子のジョージ4世とウィリアム4世にも引き継がれた。ウィリアムは議会の意思に関係なく首相を任命した最後の王になった。

21世紀

野党連立政権の悪夢
 2018年、与党自由党及び保守党で汚職の報道が相次ぎ両党の求心力が極端に下がっていった。
 そんな中、民主党と立憲党、社共党の連立政権が保守党及び自由党の議席数を越えて政権を勝ち取った。
 かれらの政権は悪夢と呼ばれた現実世界日本の民主党政権以上の、民主主義国家史上最悪の1年と呼ばれた。
 GDPは半減、失業者は50万人以上に登るとされ、もうイギリスには19世紀の栄華の影は無かった。
復興へ
 そんな悪夢も2019年の夏の燦々と降り注ぐ太陽の光で終焉を迎えた。
 保守党ガーネット政権による改革が始まった。
 政権は不正を防止する検察の権限を強化したり強大過ぎた権力の分散や官僚の大量リストラ、失業者対策の公共事業を行う等の改革を行った。
 公共事業は鉄道網の近代化や街の再開発、空き家の整備や工業地域としてメガフロートの建設等を行う等雇用拡大を成功させた。
 更に国際事業としてテソモニアとの共同でスコットランドとスカンジナビア半島を結ぶビフレスト大橋を完成させた。
 2021年年明けに統合軍を設営させた等、かなりのやり手である。


再び、英国の栄華の曙を見る日は近いだろう。

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